同修に体験談募集を重視し、積極的に投稿して法を実証することを勧める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年9月20日】今年、明慧ネットの原稿募集の知らせが早かったので、私たちに文章を書くための下準備、執筆、文章を完成するために充分な時間を与えてくださいました。しかし、周りの同修はあまり投稿する意欲がないようです。一部の同修は自分がしっかり修煉していないので、書くものがないと思ったり、また一部の同修は、自分は文章を書くのは下手で書けないと思っています。ですから、多くの同修は今になってもまだ着手していない、待つ、遅らせるという状態になっています。私はこのことについて、同修と交流したいと思います。

 今年は、大法が広く伝わってから30周年であり、5月13日は「世界法輪大法デー」であり、天上にしても、地上にしても、この日はお祝いをする価値がある神聖な日でもあります。師父がおられるため、未来があり、生命があります。私の天目は開いていませんが、天目が開いている同修はその日に、空一面にお祝いする神佛、殊勝かつ荘厳で、全宇宙の最大な祭りだと見えるでしょう。

 師父は、変異した宇宙を廃棄して再び作れば、どれほど簡単でしょうか、一念で作り上げることができます。しかし、師父の慈悲によって、マクロからミクロの無量の衆生を救い済度するため、宇宙大法を携えて、一層一層の次元を降りて、衆生と縁を結び、最後に、この十悪の毒世間(訳注:十種の罪悪が揃う毒のような世の中)に降りて来られると、皆に法を伝えに来られました。師父は私たちを救い済度するため、かつて常人社会で食べ物を乞い、数え切れない苦を嘗められました。

 私たちが師父と契約した時から、師父はずっと私たちを見守って、私たちの身体を清浄にされています。

 師父は「もし、皆さんのために歴史上の一切を引き受けなければ、皆さんはまったく修煉できません。もし、宇宙の衆生のために一切を引き受けなければ、彼らは歴史が過ぎ去ると共に解体されることでしょう。もし、世人のために一切を引き受けなければ、彼らは現在、まだこの世に存在する機会すらないでしょう」[1]と説かれました。

 師父は本当に慈悲深いお方です

 私たちは難関を乗り越えることができない場合、師父にお願いすると、師父は私たちにまだ正念があり、難関を乗り越えることができない場合、師父のことを思い出し、法を思い出せることで、私たちのために業力を引き受けられます。私たちの心性の基準が法の基準に達する時、師父は実際の業力を引き受け、私たちへの励みとされています。

 その脳血栓の人には、師父は彼が向上するため、「彼のためにこの難を受け持った時、私が一杯の毒薬を飲まされたと彼は知らなかったのです」[2]

 ネット上の同修の交流文章を見ると、「師父は弟子のために、難を受け持たれた時、背中に切り傷が増えます」と書いてあります。考えてみてください。全世界には、どのぐらいの大法弟子がいますか? 一人の弟子が乗り越える難関、返すべき業力はどのぐらいですか? すべての弟子のために、師父はどのぐらいの難を引き受けられたのでしょうか?

 師父は私たちの難を引き受けられた時、無条件に、不平不満もなく、報いなどの一切を求められてはいません。単純に私たちの純粋な心、修煉に対する固い信念の心、無私無我の心を要求しています。師父は宇宙の未来のため、私たちを本源生命の所に戻すために、全宇宙の神佛と衆生のため、師父のすべてを使い果たされています。

 では、大法弟子である私たちは、師父のために何を行いましたか? 師父が説かれた法をどのぐらい信じていますか? 師父の要求にどのぐらい達しましたか? と考えてみてください。

 師父は、「学習者が体験交流しているのを見たり聞いたりすることは、私にとって最も喜ばしいことです」[3]と説かれました。

 今回の投稿は衆生に向け、同時に大法を実証し、師父が法で人間世界を正すことをお手伝いする機会、また法を正す進捗の一部です。私たちの文章を通して、どのぐらいの衆生に真相を分からせ、またどのぐらいの人に法を得させることになるのでしょうか。このように考えると、今回の投稿は大事ではないでしょうか?

 世に降りる前、既に、師父から私たちは「神筆」(法を実証する宝器)を賜りました。なぜ使わないのでしょうか? 本当に師父を信じ、法を信じていますか? 重視していない同修も自分が修めるべきものを避けて、向上したくないのでしょう。この中に、私たちが修めるべき執着と人心がどのくらいがあるでしょう。もし多くの同修は、「私はまだしっかり修煉していない」、「私の一篇はダメでしょう」などのように考えれば、これは小さいことでないでしょう。

 実は、私たちが落ち着いて心を込めて構想する時、修煉の不足を見直すことになり、内に向けて探す過程です。人にバラを与える時、手元に香りが残るでしょう。まず受益するのは私たち自分自身です。私個人としては、学生の時、または社会人になった時、文章を書くのはとても苦手でした。しかし、これは私が法を実証しない理由にはなりません。書いている間に、「文章を書くのは下手、しっかり修めていない」などの人心を取り除き、これが修煉の昇華の過程になるでしょう。

 実際に、文章の内容は壮絶でなくても良いのです。一つのこと、あるいは数件のことを選んで、一つの角度またいくつかの角度から述べればよいと思います。大法を修煉してから、体や心性などが向上し、あるいは素晴らしさを感じたことを衆生に述べればよいと思います。真摯な言葉、あるいは簡素な言葉を使って、衆生を感動させることができます。師父は私たちに智慧を賜って、考えの筋道を絶えず溢れさせて、私たちが実証して悟った修煉体験の文章を成就させます。文章を書く過程は他の空間で、恐らく壮絶な邪悪を滅する過程であることでしょう。多くの大法弟子により大法を実証する文章が集まると、一つの巨大な威力の法器(悪を滅する法器)を形成することができるでしょう。恐らく神様はその法器を見て讃嘆してやまないでしょう。法を正す進捗は一つの段階に入ると、師父は多くのことを行われるでしょう。ですから、修煉体験談を書くのは単純に師父へのお祝い、報告だけではありません。

 同修、師父が法を正される期間は、本当にあっという間であって一瞬です。私たちはこの一瞬を大事にして、ペンを持って、各人心を取り除いて、法を実証し、大法が世の中で広く広げることを展示して、絶えず精進しましょう。

 次元の限りがあるので、法に則っていないところがあれば、是非ご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨(二)』「法を正す時期の大法弟子」
 [2] 李洪志師父の経文:『カナダ法会での説法』
   [3] 李洪志師父の経文:『米国中部法会での説法』

 【編集者注:この文章は筆者個人の今の認識で、同修と交流して、「比して学び、比して修す」】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/3/23/440372.html)
 
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