『目覚めなさい』を読んだ感想
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2024年6月8日】今日の新経文『目覚めなさい』を読んで、思わず涙が止まりませんでした。師父の巨大なご慈悲を感じる一方、反迫害から25年が経ち、大法弟子が師父にこれほど具体的に説法されなければならないのは罪ではありませんか? これが他人ではなく自分自身について説かれていることを、より多くの同修が理解し、知ってほしいと願っています。 

 伝統的な理念によれば、メディア関係者は大きな社会的責任を負い、自分自身に厳しくなければなりません。 仕事に関して言えば、「手で大切に持つ 」という言葉があるように、うっかり落として割れてしまうのを恐れて、極めて貴重な青磁を持つのと同じようなものです。もともと私たちの多くの学習者は本土から難民として海外に来ており、中共によって作られた学習環境や成長環境の中で育ちました。海外に来たときは言葉も分からず、学ぶこともできず、情報を得る方法も比較的限られて偏ったもので、その結果、欧米社会で生活しながらも社会に溶け込むことができていません。これはメディアの運営にとって非常に難しいことであり、非常に挑戦的なことであり、うまく行えるのは簡単なことではありません!

  しかし、『目覚めなさい』の経文にある「誰に対しても慈悲深く、愛の心を持ち」ということを重視せず、実行できないことに加えて、特に迫害以降、家族の事情で本土から出てきた修煉者の中には、安全で寛容な社会環境にたどり着いて、メディアで話す権利があると感じ、執着心も自由に放任されました。メディアで叫べば、すべての重要人物が皆耳を傾けると思い込んでいました。本当に単純で笑ってしまいますが、笑い話にはできません。悲しいことです。私たちは真・善・忍を修めている人たちであり、少なくとも謙虚で理性的であるべきで、物事の節度を知っているはずです。西洋人にとって、多くの人はイエスが教えた謙虚さと感謝の気持ちを心に留めています。西洋文化よりも東洋文化のほうが奥深いのではないでしょうか? 個人的な功力は一体どれぐらいあるのでしょうか? 傲慢になってはならず、ましてや軽薄になってはいけません。

 実際、仕事のプラットフォームが大法によって与えられ、すべての衆生が大法のために来ただけでなく、たとえ私たちが行うことが効果をもたらし、さらには大きな効果をもたらしたとしても、それは大法の力です。神々の加持、師父が耐えられたことによって得られました。感謝と幸運は正常な認識であり、膨らむべきではありません。無知は過ちを犯し、膨張は大きな間違いにつながる可能性があります。大法弟子がメディアを運営するのは自分が強いと証明するためではなく、人々を済度するためです。

 人身が存在する限り、誰でも間違いを犯す可能性があります。今日はこれを間違い、また別の間違いも起こしてしまうかも知れません。過ちを犯せば改め、改めれば向上します。しかし、ずっと過ちを犯して、ずっと自分の過ちが正しいと思えば、それは人格や品行の問題だと思います。それは修煉の観点から見ると、誤った認識に入り、穴に陥ったことを意味します。大法弟子たちはみんな法を学び、あなたの心性がずれていないかどうかを見て知っています。一般の常人にも道徳と観念があり、あなたの人格と文化圏についても自分で判断します。メディア関係者は、ある程度スポットライトを浴びて生きていますが、脚光を浴びるだけでなく、虫眼鏡で睨まれ、みんなから睨まれています! さらに、そうした知名度の高い地位はすべて大法の資源であり、大法が与えた栄光であり、個人が群衆の中で目立っているのではありません。それを個人のキャリア発展や職業上の成果とみなすと、多くの問題を引き起こす可能性があります。

 名、利、情、この三つのものによってどれだけの人が害されたのでしょう。 私たちは皆修煉をしていますが、大法のプロジェクトで依然としてそのようなことを行っているのであれば、出発点と目的は何なのか、真剣に考えなければなりません。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/6/6/478485.html)
 
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