魔が差した心では、幸せを感じ取れない
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2024年9月12日】最近、クリスマスに関する映画を観たことがあり、お話しには以下のようなストーリーがありました。何百人もの小人たちがクリスマス村でサンタクロース夫妻と幸せに暮らしている中で、1人の小人のエゴがどんどん膨らんで、いたずらを繰り返していくうち、やがてサンタクロースさんと張り合おうとしたり、サンタクロースさんが他の子供たちを大切にしていることに嫉妬したりするようになりました。最後に、この小人は心に魔が差して、すべてを破壊しようとあらゆる紛争を引き起こし、サンタクロースさんを打ち負かそうとしました。

 小人が完全に負けた後、サンタクロース夫妻は過去の過ちを気にも留めず彼を呼び戻し、従来通り彼をわが子とみなしました。彼はついに良心の呵責を覚えて無数の小人の一員に戻り、幸せいっぱいな表情を浮かべていました。

 小さい粒子

 映画を通して、私は多くのことを考えさせられました。幸せとは、自分を誇示したり傲慢になったりすることではなく、魔が差した心では、真の幸福を感じることができません。幸せとは、小さな粒子であることを厭わず、己を忘れ、他の何千もの粒子と支え合う中で、偉大な宇宙がそれぞれの小さな粒子に与えた幸せを感じ取ることだと思います。

 心が魔のものに変わってしまった時、その生命はどんなに自分が強くても権威があると思い、どれほど横柄で自惚れていても、幸福を得ることから逆行しているのです。なぜなら、それが宇宙の特性に反しているからです。そして、小人が真心に戻った時、自身がちっぽけな塵のような存在に見られても、それが真の幸せです。一滴の海水と同じく、自らを強調して尊大ぶるのではなく、海に溶け込んでこそ幸せなのです。

 『二〇〇三年元宵節での説法』の中で、師父はこのようにおっしゃっています。「皆さんは皆一つの粒子です。私から見れば、他の人より優れている人は一人もいません」

 ここで、私は説法の中で師父が言及された「自分の心より魔が生じること」を連想しました。この種の心が一旦現れると、戻るのは容易ではなくなります。この映画では、サンタクロース夫婦の度重なる感化の下、小人はやっと、魔のものに変わってしまった心が目覚めたのです。そして、その魔が差した心がどんなに邪悪で度が過ぎるものであっても、サンタクロースは終始彼を子供のように思い、慈しみながら彼の帰りを待っていました。

 そこで、私は師父のことを思い出しました。どのような弟子であれ、師父は終始変わらない慈愛の心で接されています。しかし、一部の同修は人心が膨張し、すでに危険な瀬戸際に達し、大法と対立するようになりました。そのような同修に対し、一言お伝えしたいです。早く変質した心を捨てて、無数の粒子に戻り、小さな粒子となって幸せを感じて下さい。そして、師父がひたすらあなたを待っておられていることを信じてください。 師父の慈悲は計り知れないほど大きいものなので、人心で師父を推し量らないで下さい。

 映画の中で、心に魔が差したその生命は、サンタクロースの他の子供たちへの愛に嫉妬し、自分が他の子供たちとは違い、特別扱いされるべきだと思っていました。

 師父は『師父の家族に正しく接する』という経文の中で、次のようにおっしゃっています。「しかし、今の人類の一員として、特に大法弟子の一員として、絶対にしてはいけない二つのことがあります。一つは師を欺くことです! もう一つは衆生を救い済度することを妨害することです! これは生命を残せるかどうかを決める根本的な線引きだからです。少しでも触れてはいけません!」

 説法から、私は師父がすべての生命を平等かつ同じ慈しみを持って扱っておられていることを理解しています。一つの小さな粒子として、他の粒子が救われるのを妨害してしまうと、大きな罪を犯すこととなり、決してしてはならないことをしたことになります。しかもその出発点は、自分自身を他の粒子よりも高い存在と見なすものでした。

 『洪吟二』の「劇一台」の中で、師父は「万古の事 法の為に来る」とおっしゃっています。

 ふと思ったのですが、多くの常人のものは、実はみな法のために来ているもので、大法を実証することに用いればよいと思います。この映画が伝えているメッセージがこういうケースであるかもしれません。

  幸福感

 ある同修によると、彼女はよく修煉による幸福感を感じるそうです。それを聞き、私は心を打たれました。というか、一種の罪悪感さえ覚えました。なぜ私は修煉がもたらす幸福感をなかなか感じることができなかったのでしょうか? 師父と大法に対し本当に申し訳ないと思います。

 その後じっくり考えてみたのですが、自分の問題点は、日常生活の中でも幸福感を感じにくいことにありました。私が感じてきたのは、名・利・情が実った時の興奮であり、伝統的な社会で人々が感じる幸福感とは全く違うものでした。

 修煉してから感じた喜びも、同修に認められたり、行っていたプロジェクトに進展があったりなどの「良い事」があって、結局のところ、名・利・情といった「収穫」があったからです。実は、このような感覚は幸福感ではなく、人心が「良い事」に刺激された後の一種の興奮であり、人間のタバコや酒、麻薬などに対する反応、刺激された後の興奮に少し似ていると思います。

 法理から悟ったのですが、修煉者が羅漢に成就しそうになっても喜んではいけないのは、いかなる「良い事」による刺激があっても興奮してはならず、心が常に穏やかで、まったく動じない状態にいるべきです。

 また最近、幸福感は何かを得たからではなく、むしろ我を忘れて利己的になった感覚だと理解しています。そのため、利己的な人は本当の幸せを感じにくく、刺激による興奮しか感じられません。

 さらに法理から、私は以下のことを理解しました。宇宙の特性である「真・善・忍」がすべてを制約しています。無私の人は、その心性が比較的に宇宙の特性に近いため、「幸福」が与えられますが、利己的な人は、心性が宇宙の特性から乖離しているため、「幸福」を感じにくいのです。これは多くの現代人が大成功を収め、名声と富をともに得ているにも拘らず、楽しくなく、さらにうつ状態になっている理由かもしれません。実は、幸福感の根底には、無私で我を忘れる、優しい心という支えが必要なのです。

 思い返せば、何年もの間、私は自分に優れている部分があることで得意げになったとき、それは幸福感ではなく、自己満足を伴った傲慢さであり、心の中で他人を蔑んでさえしていました。これらはよくない心であり、よくない心性が幸福感をもたらすことはありえません。また、物事で成果を上げて興奮した時も、修煉の中で「利益」を得たから喜んだのです。その裏には、強い人心がありました。何かを手に入れれば喜び、得られなければ落ち込み、個人の損得にばかりこだわり、真の幸せな感覚でもありませんでした。

 修煉の中でよく「幸福感」を覚えるその同修は、心が常に穏やかで思想も単純で、とても優しく、栄誉も恥辱にも動じず、利己的でもなければ自己中心的でもありません。一方、私は自我が強く、とても利己的です。それが彼女と私との違いであり、彼女が幸せを感じやすい理由でもあるでしょう。

 些細な体得ですが、適切でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 (編集責任者:李明)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/1/6/470589.html)
 
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