大法を用いて思想と体を正し、老いを取り除く
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  文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年11月27日】私は1994年に修煉を始めた大法弟子で、30年の修煉の過程を経てきました。苦しさや困難があり、数々の経験が思い出されますが、どんな嵐や風雨があっても、師父の見守りの下、すべてを乗り越えてきました。

 私は今年79歳になり、年初に連れ合いが亡くなり、私には大きな打撃となりました。精神的な状態も以前ほど良くありません。娘の同修がしばらくの間、私と一緒に過ごしてくれました。その間、娘はいつも私に背中が曲がっている、腰が前に曲がっている、姿勢が悪い、背筋を伸ばして歩くようにと口うるさく言っていました。私はそのことを感じておらず、毎日そんなことを言われてうんざりしていました。自分はもうすぐ80歳になるのだから、どんな姿でもいいと思っていました。周りの同修も多くが背中が曲がり、老いた状態を呈しているのです。

 娘は私が気にしていないのを見て、首を矯正するためのサポーターを買ってきてくれ、どうしても使うように言いました。しかし、暑くて痛いし、耐えられなくて数日で使わなくなってしまいました。娘を納得させるために、こういった方法では自分を正せないと言いましたが、心の中では真剣に認識しておらず、この問題を正視していませんでした。

 ある日、外出して食事をしていると、娘がまた私の姿勢が良くないと言ってきました。私はうんざりして「全部分かっているから、もう言わないで」と話しました。娘は私が理解していないと感じたのか、「お母さんは口では分かっていると言うけれど、心の中では理解していない。年を取った状態を認めてしまっている。それは違う」と言いました。私は反論しませんでしたが、心の中で動揺しました。

 そうです。私は年を取ったからといって、老いた状態を当然と思うべきではありません。自分をよく反省し、正す必要があります。私は古い大法弟子であり、邪悪の迫害を認めてはいけないのです。

 夜、家で功法を練習する時、私は師父に加持をお願いし、姿勢を正そうとしました。

 動作をきちんと行い、二式の功法で抱輪をする時、身体を壁に寄せ、頭、背中、腰をできるだけ壁に近づけて立ち、背中を曲げたり頭を垂れたりしないようにしました。その過程で痛みを我慢し、毎分毎秒を一生懸命続けました。心の中で師父に加持をお願いしながら、正しい姿勢を求めました。

 両側を抱輪する段階になると、元々壁に接触できなかった後頭部が壁に付き、背中も曲がらずに壁に寄せられ、首の筋もあまり痛くなくなりました。とても不思議でした。師父が弟子の体を正してくださったのだと感じました。これは師父が弟子のために苦しみを担ってくださったのです。

 それからの1週間、私は毎日続けて決して怠けることなく、壁に寄りかかって抱輪をし、身体を正しました。日々、どんどん楽になっていくのを感じました。週末に娘が来て一緒に功を練習した時、娘は驚いて私の姿勢が曲がっていないことや、首の後ろにできていた「富貴包(頸肩部に成長する脂肪沈殿または良性脂肪腫)」が消えていること、さらにお腹も小さくなっていることに気付きました。二人で大法の超常的な不思議さに感嘆しました。

 このことを書いたのは、年配の同修に伝えたいためです。自分が老いたことを認めてはいけません。私たちは修煉者であり、いつも自分の思想と身体を正すべきなのです。

  背中が曲がっている、老いた姿をしているというのは常人の状態です。日常で腕や脚がしびれたり痛くなったりして、毎日功法を練習しても変わらないということがあれば、きちんと自分を見直す必要があるでしょう。功法が正しく行われていない、標準的ではないかもしれません。今の私は真に正された姿勢を保つことができ、身体のどこも痛くありません。

 修煉者が内に向けて探し、老いの状態や老いを認める原因について、いくつかの面で気づきました。

 1、他人から指摘されるのを嫌がり、他人が正しいことを言っても受け入れたくない。自分はこの年齢だから、これで良いと思ってしまい、若者の言うことは当たらないと思い込んでいる。人を見下す心や傲慢な心です。

 2、静功煉功していると、少しすると手や頭がだらんとしてしまい、正しい姿勢が保てません。身体が楽な方に流れてしまい、標準に従って動作を行っていません。時々、いつの間にか座ったまま眠りについてしまうこともあります。このように功法が不完全では、身体が変わることはありません。師父は「功、其の身を煉す」(『洪吟』「同化」)とおっしゃっています。

 3、老いた姿勢や元気のない状態をそのまま放置し、自分をタイムリーに正さず、修煉者の基準に厳格に従わないと、衆生を救うことに直接影響し、大法弟子のイメージにも影響を及ぼします。大法は超常的であり、常人界のすべてを超越しています。

 4、大法の書を読んで法を学ぶ時に集中力が欠け、心に法が入らず、学んでも法を得られていません。よく文字を落としたり、読み間違えたりしてしまい、内心で重視せず、たいしたことではないと思っていることが、既に危険な兆候です。早急に正し、厳格に自分を修煉しなければなりません。

 以上は最近の感悟です。同修の皆様と共有します。至らないところがあれば、どうぞご指摘ください。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/10/2/483245.html
 
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