文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年3月19日】最近、『明慧週刊』に掲載された記事を読みました。その記事の執筆者である同修が、自身は以前「法が天地を正し、現世で直ちに報いがある」を現実の場面で実践したことがなく、今になってようやく決意したと話していました。しかし、私はこの同修の「実践」という意味が正確に理解できませんでした。正念を発する際に、これまでこの口訣を使ったことがないという意味なのか? あるいは、特定の邪悪な者に対して使ったことがないのか? それとも、別の意味があるのか? 何となく曖昧な部分があるように感じましたので、ここで同修と意見を交換したいと思います。
発正念の口訣は、師父が2001年に弟子たちに授けたものです。個人的な理解では、これは師父が弟子たちに神通力を行使する能力を与え、弟子たちに神威な力を発揮させ、邪悪を取り除き、大法を守るための許可証のようなものです。発正念の二つの口訣、すなわち「法は乾坤を正し、邪悪を全滅する」「法が天地を正し、現世で直ちに報いがある」(『精進要旨二』・「正念を発する時の二種類の手印」)は、非常に偉大であり、無限の威力を持つもので、師父が同時に授けてくださったものです。師父はこれらの口訣の使用に制限を設け、「控えめに使う」「慎重に使うべき」「今は使わないほうがよい」といった指示を一切なされていません。つまり、必要があれば、私たちは完全に自由に使うことができるのです。
悪事を働く者に現世で直ちに報いを受けさせることは神の慈悲です。師父や大法、大法弟子に対して悪行を働く者に現世で直ちに報いを受けさせることは、その者への懲罰であると同時に、彼ら自身や衆生への慈悲でもあります。悪事を働いた者がその報いを受けることで、自らの行為が招いた結果であることを分かるようにさせます。それが恐怖によるものか、迷いから抜け出すきっかけとなるかは別として、彼らが悪の道をさらに進んでいくのを防ぎ、罪の犯しを減らし、最終的に完全に滅び去ることを免れさせるのです。悪事を働く者が少しでも悪行を減らし、あるいは悪事をやめ、さらには善に転じることができれば、それは大法弟子にとって迫害や妨害が減ることを意味します。また、世人や衆生にとっては、救われる機会が増えることになります。これこそが、神の大いなる慈悲ではないでしょうか?
もちろん、私たちが正法の口訣を用いるとき、どの口訣を使っても、それはすべて善と平和であり、みな大法の威厳と威徳の現れです。 どのような場面で用いたとしても、みな慈悲の現れです。しかし、もし強い恨みや復讐心を抱いて行うのであれば、それは正念とは言えず、何の効果も生まないでしょう。
また、北米の同修たちの大きなグループの討論の中で、最近のこの法難において悪行を働いた者たちに対して、彼らの人としての一面に善意を持って接し、直すチャンスを与えるべきだと考える意見が多いようです。個人的には、「チャンスを与えるかどうか」は師父がお決めになることであり、法にはその基準があると思います。今は法難の初期でも、中期と後期でもなく、さらに末期でもなく、最後の最後の時期です。これは、ある生命が淘汰されるのか、残るのか、ある修煉者が成すか成さないかの最終試練です。この段階になってもなお悪事を働き、それも直接師父を迫害し、神韻に敵対するような者は、果たして救う価値があるでしょうか? 彼らの無限の業力を、師父が代わりに背負うべきなのでしょうか? 中共邪党が大法を迫害すると決めた時点で、すでに神々によってその解体・消滅が決定され、未来を完全に失いました。そして、この最後の時において、なおも師父や神韻に敵対することを選ぶ者たちに、果たして未来はあるのでしょうか? 師父、師父が主宰する神韻への敵対と、私たちへの敵対を、はっきりと区別しなければなりません。
イエスを裏切ったユダは、イエスを銀貨と引き換えに売り渡すことを決めた瞬間に、自らの運命を選びました。それをはるかに超える邪悪な生命も、すでに自分の結末を選んでいるのです。私たちが彼らに対してできる最大の慈悲とは、現世で報いを受けさせることを早急に実現させることなのです。
個人的な理解であり、不適切な点や偏った見解があれば、どうかご指摘ください。