文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年1月7日】大法弟子として心性の修煉は非常に大切です。ここで私は自分の利益に執着する心を取り除く過程を書いて、皆さんと分かち合いたいと思います。
私は利益の面で淡白だとずっと思っていました。私はいつも人に物をあげたり、物質利益が損なわれても気にしなかったりしたので、このことが原因で、夫に「家庭財産の損害者」と指摘されました。しかし、重大な利益の衝突の際、自分の執着が現れました。
2008年、村の坂のところにある農地が林地に還元された時、政府により還付された我が家の分の経済補償が村の共産党書記に横領されました。私は非常に憤慨して、その書記を恨んでいました。その後、私はある晩に、次のような夢を見ました。村の出入口に横になったその書記は、実は黄色い犬で、死んで腐っており、1枚の古い汚れた敷物がお尻のところに被せてありました。私はその犬を目にして、同情せず、恨まず、「普段悪いことをしすぎたからだ」と思って、通りすぎました。目が覚めた後、「犬を恨んで意味があるのか」と私は思いました。
それから私はその書記を恨む気持ちをなくし、利益への執着心も取り除いたと思いました。しかし、翌年補償金が配布された時に、銀行へお金を取りに行った村の皆の様子を見ると、私は我慢できなくて非常に不満でした。家の庭を歩き回って、息子に「あなたはもう大人になったのに、人に虐(いじ)められて!」と唆しました。学法に行く道中、書記に会い、避けようとしましたが避けられませんでした。「話したくないのに道中で会いましたね」と言うと、書記は「話したくなければ話さなければいい、大したことはない」と返され、結局、2人は気まずい雰囲気のまま別れました。
学法の場所に着いても、まだ憤慨していて、学法が始まっても平静になれませんでした。「どうしたのか? 学法の時までこんな心境ではだめだ」と、私は急に何かを悟ったように、冷静になりました。「このまま法を正す時期が終わったら、自分はどこに行くのか?」と思う自分に吃驚「きっきょう」(びっくりすること)しました。発正念の時間になって、私は正念を発しながら、自分の私心を発見しました。「法を正す時期が終わった時の自分の行き先だけを考えるなんて、それは私心ではないか。なぜ相手の行き先を考えないのか。大法弟子のお金を横領して、どんな罪なのか。そんな人はどこに行くのか」と思うと、泣きそうになって涙が流れ、他人のために考える慈悲心が出てきました。
内に向けて真剣に探せば、奇跡は必ず起きます。その日、学法が終わって家に帰ると、「銀行から補償金を引き落とすカードが届いたよ」と息子が言いました。翌日、銀行で1千元以上の現金を引き落とすことができました。
その後、書記に会ったとき、私は自分から「お元気ですか」と挨拶しました。書記は「まあまあ」と返事しました。「良ければ、法輪功を習いましょう」と私が薦めると、書記は「ええ。やりましょうか」と返事をしました。
以上は私が皆さんと分かち合いたい一つ目のことでした。次は二つ目のことです。
ある日、同修から電話が入りました。同修は忙しくて県城で開催される法会に参加できないので、私の参加を期待していると誘いました。私は「秋の収穫の時期なので、私も参加できません」と答えましたが、、自分の私心にすぐに気づき、大法の仕事を自分は積極的にやらないで良いのかと考え直し、私は「行きます」と電話で約束しました。
県城に出発するときに、様子のおかしい村人が我が家の近くにいるのを見ましたが、私は気にしないで村を出ました。ところが、県城に着くと、家の物を盗まれたと息子が電話で伝えてきました。
(続く)