文/山東省の大法弟子 林蓮
【明慧日本2012年6月4日】5、6日後、彼女は動功の第2式の抱輪を教えてくれました。しかし第2式の頭頂抱輪は、肩関節痛のためどうしても手を上げることができませんでした。この日、裁判所の人にまた呼ばれ、男性の受刑者と一緒に、廊下の窓に手錠をかけられたまま待たされました。しばらく経つと、その人は耐えられないと叫び、裁判所に来た人たちも見下す目で私たちを見ていました。私は気にせず、第2式をどうすればできるかばかり考えました。午後、私たちは留置場に戻されました。戻ってから「頭頂抱輪」を煉ってみると、私は手を上げることができました。私がこのことを大法弟子たちに話すと、彼女たちは、師父が私のため罪を肩代わりしてくださったのだと話しました。
数日経って、裁判所の人はまた私を呼び出しました。裁判所の人は2人いて、1人が「あなたは法輪功修煉者たちに同化されていませんね。彼女たちは本当にゆるぎないから」と話しました。その時もう1人の人は「彼女たちは法輪功を煉っている良い人ですが、あなたは借りたお金さえ返さないね」と口を挟んできました。この話を聞いたとたん、私の頭は棒で殴られたようにぼうっとなり、私はこの功法を学ぶ資格さえないのかと涙が出ました。私は落ち込んで部屋に戻って、先の警官の話を彼女たちに話しました。彼女たちは「師父は衆生の昔の過ちを問われません。誰でも済度されます。しっかり修煉さえすればいいのです」と言ってくれて、心は平静になり、心を込めて学法と煉功をしようと思いました。
半月の拘禁期限が近づきましたが、私は5式の功法を全部学んでいませんでした。私はどこに行って学べばいいか悩んでいたところ、裁判所から連絡があり、私の拘禁期限がまた15日延ばされました。私は心から嬉しく思い、そのお姉さんもこれは師父の按排だと話しました。私は彼女たちといるその時間を大事にし、毎日彼女たちが法を読むのを聞き、交流も聞かせてもらいました。自分が拘束されていることをすっかり忘れ、法輪大法の佛光に照らされて、私の思想は絶えず変化していきました。
ある日、みなは水道の水で髪を洗っていました。軒先には1メートルくらいの氷柱が下がっていました。彼女たちは、修煉者は寒さを怖がらないと話しました。お姉さんは私にも洗いなさいと話しました。私は、冬は温水で髪を洗っても風邪を引いてしまいますと話したら、彼女は「今は違います。師父が関わられています」と話しました。私は、自分も今は修煉者だと思い、そのまま水道水で洗いました。1日経っても、風邪を引いた様子はなく、師父が本当にそばにおられるのだと思いました。それから真に自分を修煉者とみなし、師父がそばにおられることを信じました。毎日食事もろくにとらず、寒い留置場の中にいましたが、内心は穏やかで、落ち着いていました。私が人生に対して理解できない謎は、1冊の『転法輪』により、ますます少なくなりました。
ある日の朝、起きてから変わった気配を感じました。警官たちは留置場に頻繁に出入りし、大法弟子たちは一人一人呼ばれ、ある修煉者たちは数回呼ばれました。午後、お姉さんは不法に懲役4年の判決が下されたとの通知をもらい、私はお姉さんと手を繋いで泣きました。大法と大法弟子を迫害する幕が開かれたのです。翌朝、大法弟子たちが煉功をするとき、警官は部屋に入って、雪かきのほうきで大法弟子たちを打ちました。ある弁護士の修煉者は、警官に二発顔を叩かれて、口から血が出ました。警官は激怒して「また煉るのか、あなたたちのせいで首になりそうだ」と叫びました。彼女たちは信仰をあきらめないという理由で相次いで刑務所や洗脳班に入れられました。
みな留置場から出てしまい、私の期限もきて、家族が私を迎えに来ました。大法は私に新たな命を下さり、私はもう自殺する考えはありませんでした。私が家に戻ってから、親戚は工場の一部の債務を肩代わりしてくれました。私の家はすでに債権者の手に渡されました。私は親戚と一緒に工場の売買手続を済ませて、工場を親戚に渡しました。私は荷物を片付けてから、家族3人で外地に引っ越しました。13年来、私はアルバイトで生活しており、人生の苦楽を味わいましたが、大法と師父の保護の下で、私の心は苦しくなく、「修煉者は苦を楽とする」ということを実践してきました。私は真の人生の意義とは何かが分かりました。
ここで世の人々に、人生の紆余曲折のなかで修煉を始めた私の経歴を話しましたが、大法弟子たちが話す真相に耳を傾け、邪党のうそ偽りの宣伝を信じないでほしいのです。中共のいかなる宣伝も政権維持のためで、人々の生死に関係なく、法輪大法は人々が救われる唯一の機会です。「法輪大法はすばらしい」、「真善忍はすばらしい」と信じ、自分のために良い未来を選択してください。
(完)
(明慧ネット「法輪大法が伝え出されて20周年記念」応募作品)