文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年11月16日】今になって分かったのですが、私の修煉を妨げていたものは自分の意志の弱さです。修煉の中で、私は悟っていないわけではなく、悟っても再三に過ちを犯し、長い間向上出来ませんでした。
修煉者は最終的に思想が絶対的に清浄になり、常人の一切の事に興味を持たなくなります。しかし私は人心のせいで一定の状態を保つことができませんでした。例えば、インターネットは常人が見るものですが、私は好奇心で時々覗いてみます。新聞にも常人の事ばかり書かれていますが、私は時々めくってみます。時間を大事にすべきだと知りながら、私は時々全く真相を伝えることと関係のない話題で常人とお喋りします。何もほしい物はないのに、時々百貨店を回り、自分の欲望を満たそうとします。修煉者は食事を淡白にすべきだと知っていながら、私は時々何を食べるかで悩みます。発正念の大事さを知っていながら私は逃したりします。今日は真相を伝えに行くべきだと思いながらも、明日に伸ばしてしまいます。同修と一緒にいる時も心性を保つべきだと思いながら、同修と会うや否や誰よりも親しくなり、歓喜心、情、口を修めずに興奮し、完全に自分が修煉者であることを忘れてしまいます・・・この類いの事が多くあります。
数多くの偶然を合わせれば恐ろしい漏れになります。幾度も自分の心性を保つことができず、後から後悔します。なぜその場できちんと行えないのか、まさに自分の意志の弱さの表れではありませんか? 師父は説法の中でいつも意志を強調されました。修煉の道のりに強い意志がなければ、円満成就も出来ず、衆生を救う使命も果たす事ができません。師父は、次のように説かれました。「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる」(『洪吟二』「正念正行」)
私が悟ったのは、覚者は金剛不動で、覚者の意志も金剛なのです。なぜなら、物質と精神は同一だからです。今の常人の意志は意志とも言えないほど弱く、言動不一致も度々見られます。しかし修煉者として、なぜ一定の状態を保つことができないのか、それは自分を厳しく律することをせず、精進したり、精進しなかったりするからです。師父は説法の中で私達に強い意志を持つよう要求されました。決心すればそう難しくないと思います。
私の周辺に良く修めている同修がいます。彼女は十年来学法と煉功を日課として励み、休んだことがなく、トラブルがあればそれは自分の心性を向上するチャンスだと言い、自分の不足を見つけました。10年来、彼女はテレビやラジオに無縁で、食事もお腹がいっぱいになればそれでいいと言い、おいしいものを作ろうと思ったことがなく、外部による邪魔のため大法の事に支障をきたしたこともありませんでした。どの家にも多くの出来事があるはずですが、彼女の心はそれによって動かされたことがなく、これはまさに彼女の強い意志があっての事ではありませんか。しかし彼女に言わせると修煉は簡単で、やればできるのです。執着を放下しないから実行できず、つい難しく感じるのです。天目で見た彼女の他空間での功柱はとても高いのです。
私と同じように、いつも同じ過ちを犯してしまう同修をみて、この文章をもって同修達と交流し、皆さんと一緒に精進していきたいです。個人の次元に限りがあるので、不足の部分があれば同修の慈悲なご指摘をお願いします。