【明慧日本2013年2月26日】法輪功修煉者・張学文さんの家族は2003年8月7日、呼蘭区刑務所(元葛志刑務所)から、張学文さんが危篤状態に陥ったので引き取りに来るようにと急な連絡を受けた。家族が翌日駆けつけると、張学文さんは既に死亡していた。その姿は非常に悲惨なものだった。張学文さん(の死体)は痩せこけて皮膚が骨を包んだような姿であり、歯は全て無くなっていた。刑務所側は家族に、張学文さんがこのような姿になるまで迫害された場所はここではなく、呼蘭区留置所であると伝えた。刑務所側は上級部門の圧力で、受け入れを拒否できなかったと伝えた。また、張学文さんは病死なので彼らとは関係がないと言い出し、家族に火葬を迫った。8月9日、呼蘭県公安局防暴大隊の武装警察10人の監視のもと、家族はなすすべがなく、張学文さんの遺体を火葬せざるを得なかった。
張学文さんの生前の写真
張学文さん、享年54歳。ハルビン市呼蘭区方台鎮在住。とても穏やかな性格で大人しい優しい人だった。農家出身の張さんは1994年から法輪功の修煉を始め、それ以降心身ともに健康になった。1999年7.20、江沢民と中共(中国共産党)が法輪功迫害を開始すると、張さんは2回北京へ陳情に訪れた。2回目の2001年に天安門公安局の警察に連行され、5日間迫害された後、呼蘭区方台鎮公安出張所の警官・任秀威らによって移送され、呼蘭区留置所に拘禁された。張さんはそこで40日間拷問された後、懲役1年の不法判決を言い渡された。張さんはハルビン市万家労働教養所に移送され、集団暴行を受けた。張さんは警官に暴行され、口と鼻から血が流れて止まらなかった。2カ月後、法輪功迫害で悪名高いハルビン市長林子労働教養所に移され、引き続きを迫害された。
釈放された張学文さんは、その後4回も呼蘭区公安支局によって拘束され、罰金1600元を盗られた。2003年3月、張学文さんは呼蘭区二八鎮新立村で法輪功の真相資料を配布していた時、村民によって通報され、二八鎮公安出張所に連行された。その後、警官・張延宇らによって呼蘭区留置所に移送され5カ月間拘禁され迫害された。その間、呼蘭区公安支局副局長の姜健民、国保大隊陳北林らに拷問され瀕死状態に陥った。
張学文さんは釈放を求め、迫害に抗議して断食を行った。すると、呼蘭区留置所元所長の趙連貴、王玉、王建新らに、喉から胃までゴムホースを差し込まれ食物を強制的に注入された。また「鉄の椅子」と呼ばれる拷問にかけられ、さらに塩水と食物を注入され、その過程で全ての歯を折られた。食物を注入された後、張さんは両手に手錠を掛けられ地面に押さえつけられた。
呼蘭区裁判所は2003年6月12日午前、張さんに対する裁判を行い、張さんに不当判決を下そうとしたが、張さんはあまりにも衰弱し、その場にいられなかったという。現場にいた人は、目を疑うほど痩せ果てた張さんの姿を見て怖くなった。皮膚と骨だけが残っていて、顔面蒼白、目に光はなく、自力で立つことのできない姿を見て、生きていると思えないほど恐ろしい姿だったという。
裁判は続けられず、当局は慌てて張学文さんを呼蘭区留置所に移送した。張学文さんは高熱を出して、大便とともに大量出血した。2003年6月20日、張さんは盲腸炎と診断され手術を受けたが、実際には盲腸炎ではなく、手術の際に何も見つからなかったという。
張学文さんは呼蘭区留置所で危篤状態に陥るまで拷問され、呼蘭区刑務所に移送された。呼蘭区刑務所は張学文さんの恐ろしい姿を見て、受け入れを拒否したが、公安局などから圧力を受け、張さんは受け入れた。
張学文さんが迫害され死亡した後、呼蘭区刑務所、呼蘭区公安支局は家族を脅迫して遺体を強制的に火葬させ、犯罪を隠滅しようとした。張学文さん家族が見ても本人であると分からないぐらい顔や体が傷だらけになっていた。顔・口など全身のあちこちに血の塊があり、悲惨な姿であったという。当局は家族に対し、告訴してはならないと脅迫した。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/2/18/138186.html)