「待ち望んでも来ない終結の瞬間」を読んだ後の感想
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文/中国の大法弟子・同真

 【明慧日本2015年10月12日】明慧ネットに掲載された文章、「待ち望んでも来ない終結の瞬間」を読んだ後、深く同感しました。迫害が始まった初期、多くの修煉者は迫害がそんなに長く続かないと思って、とても熱心に真相を伝えて大法を実証していました。しかし、情熱であれ激情であれ、さすがに持続的なものではなく、迫害は16年も続き、まだ終わりが見えないため、最初のあの勢いは、どんどん消えて無くなり、弱くなりました。

 同文章に言った「法を正すことの終結はただ待つことによって、得るものではない。たとえ待つことによって終結の瞬間が、いつか来たとしても、きっと我々の望むような結果ではないと思う。逆に、その結果に我々はきっと、とても後悔する」に、私はとても賛成します。まず、「正法修煉」はどんなことであるかについて、最も基本的な認識をしたほうが良いと思います。つまり、私たちはどこまで修煉したら、どんな結果を収めたら、法を正すことが終わっても良いかを、認識する必要があると思います。

 「正法修煉」はかつての個人修煉と異なっています。かつての個人修煉は、ひたすら自分を高めれば良いので、外部のすべては、自分に何の関係もありません。一方、「正法修煉」というと、1999年7.20以前の段階では個人の向上を主として、7.20以降は、個人修煉が基準に達しなければいけないし、同時に全力で世間の人々を救うことも要求されています。つまり、この2つの方面がともに基準に達すれば、「正法修煉」も自然に終わる、ということです。

「結末はあなたが誓約の中で、すでに決めたのです」

 師父は『二〇一三年米国西部国際法会での説法』に「在席している一部の学習者は、私に分かっていますが、精進しておらず、人によっては非常に精進していない学習者がいます。しかし師父はいつも、あなたはどうしたらいいのでしょうか、なぜ正念がないのでしょうか、師父はあなたを救いに来たのではありませんか、この法は皆さんを救いに来たのではありませんか、しかも、あなたはほかの人を救うという責務をも持っているのに、自分自身がしっかり行なっていなければ、どのようにすればいいのかと考えています。自分が神と交わした誓約を果たさなければ、結末はあなたが誓約の中ですでに決めたのです」とおっしゃいました。

 では、私たちの修煉を見てみましょう。持っている「執着」はすべて除去したのでしょうか。本当に師父が『洪吟・迷中修』でおっしゃった「修して執着を一つも漏らすことなきを得れば」の状態に達したのでしょうか。救った衆生の人数が、師父の要求に達しましたか?中国人の人口の半分或いは70%、80%を救おうと、師父は私たちに要求されていますが、総人口の15億に対して今日まで「三退」した人数は、わずか2億1千万余りで、師父の要求からまだまだとても遠いのです。

 江沢民告訴について私の見解を述べます。先月、『江沢民告訴についての通知』が出されて、身分が中国共産党当局に知られていない法輪功学習者に、師父は便宜な機会を与えてくださり、匿名で告訴することができます。しかし、今まで江沢民を告訴した人数はわずか18万人余りです。江沢民を告訴することは唯一のプロジェクトではありませんが、目下最も積極的に参与するべきプロジェクトであります。ここでは同修の皆さんを非難するつもりはありませんが、当初の生死も放下して表に出て大法を実証する勇気はどこに消えたのでしょうか。まさか江沢民告訴は天安門に出て大法を実証することよりも、難しいのでしょうか、と同修の皆さんに聞きたいのです。

師父に延長された時間は、大法弟子を助けるため、衆生を救うための時間

 長期にわたる苦しみの中で、私たちは正念を失ったり、或いは法を正すことが早く終わるようにと望んだりします。しかし、そのような「望み」は私たちの生命の最も本質的な考え方ではありません。師父は『二〇一三年米国西部国際法会での説法』に「以前話したことがありますが、中共邪党が10年生き延びることができるかどうかと言いました。10年どころか、5年で終わらせることも可能です。しかし、皆さん分かっていますか? どれほど多くの衆生が邪悪に騙され、救われなくなるのでしょうか? どれほど多くの大法弟子が迫害の中で意気消沈し、出てくることができなくなったのでしょうか? 終わっても何の意味があるのでしょうか? 法を正すことは人を救うためではありませんか? 私一人で去ってしまえば、何のために創世したのでしょうか? 先史での按排はすべて無駄になります。時間が先延ばされたのは皆さんのため、衆生のためなのです」とおっしゃいました。

 高校生のことを例えにすると、毎日ちゃんと勉強をせずに、ただ大学入試の日がやってくるのを待つとします。大学に進学することを夢見ていますが、大学入試の日が本当に来たら、自分はきっと落第に決まっています。その結末は自分がとっくに決めたものなのですが、いざその時になると、自分は泣きくずれ、後悔するのではありませんか。

外部の誘惑に負け、人心と執着を取り除かず、私たちはどこまで滑り落ちるのか?

 師父は『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』に「仕事を行う時の態度や、どのように人を救うことができるのかという問題について真剣に考えておらず、これは修煉の問題なのです」、「社会の種々の有り様、人類社会はまたこれほど繁雑で、特に現代社会で歴史上のこと、将来のこと、現在のことが全部集まり、皆さんが何を選択するのかを見ています。これによってこの社会はかつてない賑やかさを見せており、人間の執着心が引き起こされやすいのです。修煉者にとってそれは妨害であり、修煉と人を救うことの難しさが増えたのです。このような環境で修煉するのは本当に難しいのです。皆さんの考えがどのように動いているのか、行動がどうなっているのかはそれらにすべて見えます。皆見ています。いかなるものも人の執着を引き起こしてしまいます。しかし、大法弟子として、法から離れ、そのうえ正念が十分でなければ、本当に遠く離れてしまい、場合によっては一瞬で遠く離れてしまうのです」とおっしゃいました。

 法を正すことが今日まで延長され、継続されていることは、大法弟子と宇宙のすべての衆生に対する師父の恩恵のおかげです。私たちはただ時間を切り詰めて、やるべきことをしっかりやっていく、それしかないのです。

 修煉の終結を待ち望むという心は何ですか? 根本からいうと師父と大法に対して、とことんまで信じていないことです。

 師父は私たちのために最も良いものを用意されています。私たちはすべての人心と情を取り除いて、理性をもって「正法修煉」とは何かを認識してこそ、はじめてしっかり行えるようになると思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/9/29/316800.html)
 
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