明慧法会|選択
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 【明慧日本2015 年11月15 日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 このテーマを書くにあたって感慨無量の思いです。困難で紆余曲折の多い日々の中、で正法修煉の13年を歩み、師父のご慈悲の下、私は困惑ととまどいから抜け出しました。つまづいて転んでも這って進み、自分を正してきました。修煉の道で、一歩進むごとに、関を一つ越えるごとに、心を動かすごとに、ある選択に直面しました。それは魔難の中での試練であり、人心を放下し、人としての観念を徹底的に変え、生死をも放下できるかどうか、常人を乗り越え、正法修煉の道を歩み、自身の史前の洪願を実現できるかどうかということでした。

 北京へ行き法を実証する

 1999年7月20日、迫害が始まった時、私の修煉はまだ1年経っていませんでした。その時、私は大学生でした。猛吹雪が天地を覆い隠すようかのような迫害の映像をテレビでみた時、最初、私の第一念は「これはみな嘘で、デマに違いない!」でした。私は陳情に行かなければならないと思いました。その時はちょうど試験が終わったばかりでした。夏休みに入っており、学校の先生は校門に椅子でバリケードを作っていました。学校を出て行こうとする私に「どこへ行くんだ」と聞きました。私が「市政府に行きます」と言うと、その先生はどうしても私を行かせようとせず、警備員とクラス担当の先生を呼んできて、学校内の教師用の事務室に拘禁しました。先生たちが出口をふさいでいたので、それを突破しようとしたのですが、成功しませんでした。先生たちは鼻水と涙を流しながら私に「行かないように」と説得しました。ある先生は私にしきりに哀願し「子どもが家で熱を出しているが、あなたがいるので家に帰って子供を見られないんです」と言いました。その先生は中国共産党の毎回の政治運動に恐怖を覚えていました。私も内心ではこの上ない恐怖を感じているのですが、しかしテレビで法輪功に対する誹謗中傷と迫害を見て、心が痛みました。大法の中で身をもって恩恵を受けた人間として、一言も真相を伝えに行かないなんてことができるはずがありませんでした。次の日の朝早く、私は下校申請書を書き「下校後に行うことは学校とは一切関係ない」ことを説明しました。こうして私は市政府へ行きました。学校の書記が私を迎えに来て直接私を家に送り届けました。私が家で行うべきことを書記はきちんと説明してくれたのですが、この時から私の生活はもはや平穏ではなくなりました。

 迫害当初、中国共産党は猛吹雪が天地を覆い隠すようかのように迫害を行っていました。私たちの家では毎回家族会議が開かれ、どのように私に修煉を諦めさせるかについて議論していました。おばとおじも家族会議に参加しました。おばは泣きながら頭を私にぶつけ、私に保証書を書かせました。おばあちゃんは騒ぎながら床をのた打ち回りました。さらにおじは私を跪かせ、革靴で蹴りました。私の両親も修煉していましたが、非常に恐れており、怖がって話ができなくなっていました。おじいさんはただ泣いているだけでした。なぜなら、おじいさんはかつて右派(訳注:中国共産党の政策に批判的な知識人)のレッテルを貼られたことがありました。多くの中国共産党の政治運動を経験しており、そのたびにひどい目にあわされました。政治運動は家族全員を臆病で事なかれ主義にしました。不満を我慢してまで事をまるくおさめようとし、日和見主義の性格に変えました。今回も中国共産党の政治運動だと、家族の見解は一致していました。一人の女の子がどうして中国共産党の国家権力機構から逃げ出せるというのでしょうか? 家族が秘密に相談しているのを私が聞いたところによると、私に絶対に二度と修煉させないことと、絶対に学業を続けさせる、ということでした。なぜなら私が学んでいた専攻科目は人気があり、私は一家の希望でした。今まで家族の中でこの職業に従事した人はおらず、家族全員が将来の私に期待していました。さらに家族は卒業後の職場を私のために手配していました。それは修士課程以上の学位を持つ人しか入れない職場で、大都市にあり、待遇は言うまでもありませんでした。私は今までこのような圧力や苦痛、失意を感じたことがなく「これは一体何なんでしょう? これは政治運動でしょうか? 法輪功は人を善に導くよう教えているのに、なぜこのような残酷な方式で修煉の放棄を人に迫るのでしょか」と納得がいきませんでした。その時は修煉を始めて1年足らずでしたが、大法はすでに私の心にしっかりと植えつけられていました。静かに心の中で正と邪、善と悪を見分けた結果、最終的に、やはり私は修煉の道を選択しました。

 学校が始まった後、私は家庭という束縛から脱するため学校に戻りました。同修から「みんな北京へ陳情しに行き、国家指導者に状況を伝えてきた」と教えられました。周りの同修は続々と北京へ行っていました。同修たちは職場や家族に手紙を残し、職場を辞職し、家族には状況をはっきり説明していました。職場や家族に迷惑がかからないように、同修たちは北京で名前を言わないことを決めました。その時、北京に行く決心がつくかどうか、本当に利益を放下し生死をも放下できるか、常人から抜け出すことができるかどうかの大きな試練でした。はっきりと覚えているのですが、ある同修は職場への手紙に「風蕭々として易水寒し 勇壮な男子はひとたび去れば二度と再び還ってこない」と書きました。その悲壮な情景は今でも目の前に浮かんできます。当時は「迫害が終わらなければ家には帰らない」という一念を抱いており、大法に対する正念と信念は大きな岩のように堅固でした。私も北京へ行こうと思ったのですが、当時、学校は私を厳しく監視するために宿舎を変え、監視するための先生がいつも付き添っていました。母親も学校まで来て付き添いました。その影響で恐怖心が強くなり、もし今回北京へ行ったら生死は予測できないと感じました。しかし迫害が少しずつ激しくなっていくのを見るにつけ、もはや座っていられなくなりました。学校の厳重な監視下から抜け出し、タクシーに乗って学校から離れました。

 街を出る大通りに立ち、何台もの長距離バスが私の前を通過するのを見送りました。私はどうしても一歩が踏み出せず「私は小さい時から臆病で事なかれ主義な性格で、いつも聞き分けのいい子でした。自分が住んでいる街から離れたことがなく、もちろん両親からも離れたことがありません。もし大法が迫害に遭わなかったら、もし師父が無実の罪に落とされなかったら、もし大法を修煉せず正念と信念の基礎がなかったら、私は決して家を離れたりしなかったでしょう」と考えていました。内面の恐怖は極限に達しました。直面するであろうすべてのことを想像すると、足が思うように動かず、まるで万斤(注釈:1斤は500グラム)の重さのようで、さらにガタガタ震えだしました。私は『威徳』『助法』『無存』『根を掘る』『さらに執着を取り除く』などの経文を一つ一つ暗唱し、どれくらいの時間経ったかわかりませんが、省城(注釈:省の行政機関所在地)行きのバスが来たのを見たので「バスに乗らなければならない」と自分を責め立て、ついに足を踏み出し、バスに乗りました。この一歩を踏み出してみると、心は平静になりました。道中は法を暗唱し、順調に省城に到着しました。私は同修に連絡を取り、私たちは一緒に法を実証するために北京へ入りました。

 1999年から2000年にかけて、私は合計3回、陳情のために北京に入りました。1回目は国務院陳情事務所へ行き、2回目は天安門で横断幕を掲げ、3回目は中南海へ行き陳情書を手渡しました。毎回強大な恐怖心を克服し、その恐怖心から抜け出してきました。とはいっても、今に至るまで、まだ恐怖心を完全に放下していません。そのため何回も拷問による苦痛を受けました。時には法理の上でまだはっきりとせず、まだ人心がありましたが、すでに「私の生命は大法によって作られたので、もし大法を離れれば、私の生命などくだらない存在になってしまう」ということに気が付いていました。

 迫害され労働教養所に入れられる

 陳情しに北京に入っている間、私は休学を余儀なくされ、知らない土地で路頭に迷っていました。ある時、一人の年配の同修が1枚の法輪功の資料を持ち、私に「私たちもこのような資料を作るべきではないでしょうか」と相談しました。それは『免れない江沢民、歴史的責任』という資料でした。中を見てみると、非常に敏感な問題だと感じました。頭の中に党文化の内容が蒸し返され「政治に参与することになるのではないか」と思いました。資料を読み終わった時、私の理性的な一面が私に「やるべきです。これは政治に参与しているのではなく、人々に真相を理解してもらうために、大法に対して誹謗中傷している宣伝を指摘しているのだ」と告げました。私たちはすぐにコピーショップを探して大量にコピーしました。同修も協力して、大通りと路地裏に貼りまくりました。今回の経験を通じて、私は修煉と政治の関係の区別がつき、それ以後の修煉の道を歩むにあたっての基礎を築きました。

 それ以後、私たちは自分たちで資料を作り始めました。当時はとても困難で、設備の問題と技術に関してもずぶの素人でした。加えて、中国共産党が狂ったように迫害していたので、住居が定まらず、毎日、心理的な緊張とプレッシャーを感じていました。ある時、同修が交流文章を印刷しました。両面とも同じ内容が印刷されており「もし私が捕まったら」というタイトルでした。私は「どちらにしても捕まったら逃げられない」と思いました。当時、旧勢力の迫害を否定する法理をまったくわかっておらず、ひたすら消極的にどうしようもなく迫害を一方的に受け止めていただけでした。路頭に迷い、やる事が多すぎて学法が追い付かなかったために、2001年の春に私は不当に労働教養処分を受けさせられました。

 その頃は本当に、中国共産党は労働教養所で狂ったように大法修煉者を転向させていたピークの時期でした。昔からしっかり修煉していた多くの同修が転向させられ、邪に悟るようになり、私の心はとても痛みました。中国共産党は私を転向させる目的を達成するために、すべてを惜しみませんでした。援助教育団が何度も私の所に派遣されて「腹を割って話そう」と言いました。私が知っている人も知らない人も、教授や大学生、博士課程の大学院生や前の輔導站のリーダーなど役に立ちそうな人をすべて使いました。脅したりすかしたりして、必死に、私に保証書を書かせようとしました。私に保証書を書かせようとした人たちの話を、大法に照らしてみると、みな漏れがありました。転向した人はくどくどうるさくて理性的でなく、話の内容がでたらめでした、すでに理性を失っていることに私は気づいていました。私は「しかし、このようなでたらめな理屈で大法修煉者は転向してしまったのだろうか?」と思い、納得できませんでした。当時、師父はまだ発正念の説法を発表なさっていなかったので、私は『邪悪を窒息させる』を暗唱し、中国共産党による洗脳に抵抗していました。すると最後に、中国共産党の邪悪な者たちは敗走していきました。そしてついに、中国共産党は偽善の仮面をはぎ取り、残忍性をむき出しにして肉体的拷問を加えました。眠らせない、トイレに行かせない、体を洗うことを許さない等々。長期にわたる昼夜を問わない拷問により、私の精神はぼんやりしてしまいました。ある時期、私は記憶を失ってしまいました。中国共産党は私が前後不覚に陥った時に、私を騙して保証書を書かせました。労働教養所を出た後、私はすぐに「中国共産党が私に押し付けたいかなる迫害をも私は認めない」という厳正声明を書きました。

 小さな花を咲かせる

 2003年秋、労働教養所を出た後、家に帰り、学法で一定期間調整した後、明慧ネットで「資料拠点を津々浦々まで広める」ことが提案されているのを知りました。私も小さな花を咲かせ、周りの同修が明慧ネットの資料と『明慧週刊』を手に入れられるように手伝おうと考えました。資料を作る過程では、自分も絶え間なく向上し、パソコンとプリント技術を掌握し、同修を助けながら資料拠点を運営しました。

 2004年末、大紀元が『共産党についての九つの論評』を発表した当初、私は関心がなく、自分の修煉とは関係がないと思っていました。自分もかつては中国共産党員であったけれども、年齢が幼かったため、騙されて入党したという認識でした。迫害が始まった後、私は自ら党委員会書記に脱党を申し出たので、自分が受けた中国共産党の毒害は小さいと思っていましたし、政治などにも関心がありませんでした。しかしある時、ある同修が私に「『共産党についての九つの論評』を重視すべきだ」と注意してくれました。私はすぐに内に向けて探しました。すぐに自身の正しくない観念を正し、まじめに『共産党についての九つの論評』を読みました。私はもう「『共産党についての九つの論評』と私とは関係がない」とは思わなくなり、すぐに世の人々に共産党の本質を明らかにすべきだと思いました。当時『共産党についての九つの論評』を制作していた時、妨害が非常に大きくなりました。プリンターが紙詰まりを起こして気が滅入り、てんてこ舞いになりました。私自身も妨害を受け、せきが出てのどが痛くなりました。しかし、その他の資料を作る時は、これらの症状はまったく出なかったのです。しかし妨害を受ければ受けるほど「これはやらなければならないことだ」という認識を深めました。当時『共産党についての九つの論評』を一評ずつの小冊子にして、弾力的に配布すると、効果が上がりました。他の資料拠点も私の所から小冊子版をコピーしていきました。実際、法を正すための新たな情勢が起こるたびに、私たち自身の正しくない観念を正し、自分の疑惑や困惑を放下し、無条件に大法に同化しました。師父の法理を悟らなければならず、そうしてはじめて法を正す進展に追いつき、常人の理を乗り越えることができたのです。

 私が不当に労働教養されていた間、私のボーイフレンドも迫害され留置場に入れられました。ボーイフレンドが帰って来た後、私たちは結婚しました。その後、子供が生まれました。その頃、私は怠けだしました。常人の生活を送り、子供を育てるのに多くの精力を費やしました。しばらくして、私たち一家は迫害されました。パトカーが私たちの家を取り囲み、警官が消防用のハンマーで私たちの家の防犯ドアを打ち砕きました。家に侵入して私と家族を不当に連行しました。私たちは留置場から出ると、すぐ現在の街に引っ越しました。

 今の街に引っ越して来た当初、恐怖心のため、この街の同修と接触しませんでした。自分の家で学法し、資料を作り、自分で配りに行っていました。半年ほど過ぎたころ「この状態は正しくない。地元の同修と連絡を取って、全体に溶け込むべきだ」と感じ始めました。夫が同修を探しにいくと、すぐに地元の同修と連絡が取れました。ちょうど私の家の近所に年配の同修がいたのです。私たちはすぐに学法グループを形成し、毎晩グループ学法しました。同修から知ったのですが、地元の技術担当の同修が不当に連行されました。その技術担当の同修の自宅の資料拠点の設備はだれもメンテナンスできなくなったうえに、同修たちはみな技術が未熟でした。こうして、私と夫は資料拠点の立ち上げを引き継ぎ、資料拠点を維持し、設備を買い、技術を教える任務を買って出ました。毎日の集団学法によって基礎が築かれ、私たちは平穏に修煉しました。夫も恐怖心を克服し、ある意味では難度の非常に高い、資料拠点の技術とメンテナンスの仕事を請け負いました。夫も手探りで行い、いつも夜中まで研究しました。次の日は顔を洗ってすぐに仕事に行きました。研究して習得した後は、その技術を詳細なテキストにして編集し、インターネットにアップロードしてみんなが共有できるようにしたので、その技術を必要とする同修は非常に学びやすくなりました。私は年配の同修と協調して、資料拠点の仕事を手伝いました。こうして、私たちの地域の資料拠点はすぐに復活して立ち上がりました。さらに新しいプロジェクトも立ち上げ、資料作りは軌道に乗って行きました。

 資料拠点の仕事を協調する中で、いつも何人かの心性を異にする同修と接触することがありました。時としてトラブルが発生すると本当に心に衝撃を受けました。資料拠点の仕事を始めた時は焦り、憤懣、恨み、嫉妬から同修の不足を探すなどの心がありました。現在に至っては、内に向けて探し、自分を見つめ直し、心を平安にして心性を異にする同修と向かい合い、二度と具体的な事柄において相手が間違っているいう理由で争うことはなくなりました。かえってそれは心を修めるうえでの勉強であり努力である、と考えるようになりました。

 同修を救出する

 去年の春、私の地方の何人かの同修が不当に連行され、留置場に拘束されました。どうしよう? 私たちはみんなで相談し「すぐにみんなを組織して同修を救出すべきだ」ということになりました。私たちは手分けして行動し、同修の家族に会って警察署と公安局に同修の引き渡しの要求に行きました。ある家族はまったく協力的でなく、その他の家族もあまり協力的ではありませんでした。私たちはある同修の家族に付き添って公安局と国保大隊に行くと、一人の警官が激怒しながら下りて来て、私たちに向かって大声を上げました。手には何冊かの真相パンフレットを持っていました。なんと、私たちは知らなかったのですが、同修の誰かが警官が出勤する前に真相パンフレットを公安局内で配っていたのでした。

 その警官が大声を上げているのは無視しました。なぜなら私たちはその警官が怖いとは思わなかったからです。一人の常人に対するようにその警官に真相を伝えました。家族は公安局の入口の前で「家族の釈放を要求する」と書かれたボードを掲げました。公安局の人間は座っていられなくなり、しばらくして一人の警官が出て来て家族の写真を撮りました。またしばらくして別の警官が出て来て家族を脅しました。出て来た警官の中には慌てふためいてやって来て家族に「早くそのボードをしまいなさい。何かと思われるだろう。これはいったい何をしているんだ」と言いました。警官たちは非常に恐れていました。この時、道行く人の何人かが見物に集まってきましたが、何が起こっているのかはわからないようでした。一人の同修が私に「あなたは見物に来てる人たちに真相を伝えてください」と言いました。私が見物人の方に歩いて行くと、一人のおばさんが私に「何があったの?」と聞きました。私がそのおばさんに何が起きているのかを伝えると、そのおばさんが「以前にも法輪功を伝え、三退を勧めた人がいたが、私は法輪功が政治にかかわっていると思って、三退しなかった」と言いました。私がそのおばさんに「法輪功は政治にかかわっておらず、人を救うために・・・」と伝えると、突然そのおばさんは「今度ははっきりわかったわ。私は三退します」と大声で言いました。そのおばさんが救われたのを見ると、私は涙が浮かんできました。突然一陣の熱い流れが頭のてっぺんから下りて来ました。その時、私は頭がすっきりして気持ちがさわやかになり、体はこれ以上ないほど軽くなりました。慈悲深い師父が私に灌頂をしてくださっているとわかりました。

 私たちは北京から正義感のある弁護士を頼みましたが、国保大隊は弁護士が同修に会うのを妨害しました。さらに弁護士を脅したので、私たちは公開の告発文を書き、国保大隊が違法である事実を指摘しました。それをシールやチラシにしていろいろなところに貼り、人々に配りました。ある時、同修の家族に付き添って国保大隊長に会いに行くと、大隊長が上から下りて来ました。手にははがされたシールを握っており、私たちに向かって「俺の家の玄関に貼りやがって、だからはがしてやったんだ」と大声を上げました。私たちが大隊長に向かって真相を伝えていると、ちょうど大隊長の友達から電話がかかって来て「大通りは大隊長の名前が書かれたシールでいっぱいだ」と言ったので、大隊長は腹を立てて「私は今、世の中で有名人になってしまった」と言うしかありませんでした。私たちは思わず笑ってしまいました。大隊長は自分がいかに廉潔で良い人間であるかを懸命に弁明しました。さらに自分の格言は「強い忠誠心で国に身を捧げることだ」と言ったので、私は「あなたは国に身を捧げるのではなく、党に身を捧げているのです」と言いました。大隊長は自分の偽りの弁明がばれそうになったので「あなたたちと話す必要はない」と言って早々に立ち去ってしまいました。公安局から出た時に、私はまた師父が私のために灌頂してくださっているのを感じました。公安局に行く時は心の中が少し揺れていましたが、公安局から出て来た時は、心が非常に平静で、静かにたたずみ、とても美しく感じました。

 私たちは何度も同修の家族に付き添って警察署へ行き担当の警官に会いました。多くの同修が付近で正念を発して支援すると、その警官は私たちを避けるようになりました。ある時、その警官の車が警察署の駐車場にあるのを見つけました。さらに車の中にまだ人がいました。私たちが歩いて行くと、車の中にいた警官が驚き「私たちじゃない、車は彼のだが、彼はいない」と言いました。そう言い終わると、そそくさと車を運転して行ってしまいました。

 実際、大法修煉者が協力して打ち出した正念の場は邪悪を除去しました。邪悪は私たちを避け、逃げ惑うしかありませんでした。どこで大法修煉者を迫害しようというのでしょうか。

 今回、同修を救出してから、私は行動を起こしました。本当に同修のことを自分のこととし、警察署や公安局へ行くのにも恐怖感はなく、正々堂々と同修の引き渡しを要求しました。実際、その時はわかっていませんでしたが、同修を救出したことを今振り返って見れば、すべては自分のためでした。なぜなら私は本当に常人から抜け出したことがわかっており、他人のことを自分のこととし、 大法が成就するのは 他人を先に考え自分を後にする覚者だからです。

 夫が不当に連行された後

 今年の春、夫が警官に連行され、私も同修の家で連行されました。今回の連行は計画的なものでした。中国共産党は統一行動をとり、10数人の同修を同時に連行しました。留置場では、警官は私たちに話をさせず、真相も聞きませんでした。私はいっそのこと何も話さないことにし、心の中でずっと正念を発し、法を暗唱しました。なぜこのようなことが起きてしまったのか、私は内に向けて探しました。安逸心、肉親への情、魔性、仕事に対する執着、色欲などの執着心を深く探りました。最後に残った執着心を見つけ出し、それも放下しました。最後に残った執着はこの体でした。この執着に思い至ると「この執着をとどめておいて何をするのか、放下しよう」と考えました。体と生死に対する執着をも放下し「いつ家に帰れるのか」ということも考えるのをやめました。私はやはり修煉の道を歩まなければならず「刑務所や留置場に行ってしまったら、私の修煉は個人修煉になってしまうのではないか」と考えました。やはりそれではダメです。なぜなら私の使命は外での活動にあり、私は自分の誓約を果たさなければならず、それは「師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する」ことにあったからでした。私は「弟子は法を正す修煉の道を歩み、師父が按排された道を歩まなければなりません」と師父に加持を求めました。この考えに至った結果、午後4時ごろになって、警官たちは私を家に帰しました。

 同修が書いた「全国的で広範囲な不当な連行による迫害事件」についての一篇の体験談を読んだことが記憶に残っているのですが、実はそれは旧勢力が按配した関を克服するための試練でした。試練の目的はつまり「内に向けて探す」ことでした。今回、私も深く体験し、内に向けて執着心を探し、さらにその執着心を取り除こうと決心して、はじめて道を切り開くことができたのです。

 家に帰って見ると、家の中の物は残らず奪い去られ、がらんとしていました。パソコンやプリンターが持ち去られたのは言うまでもありませんが、お金も一銭も見つかりませんでした。私は警察署に取って返し「これでは生活できません。あなたたちは一銭も残さず、奪い去って行きましたが、家にいた老人も驚いて行方不明になってしまったじゃありませんか」と言いました。警官たちは「それならすぐに親戚に電話しろ」と言いました。私は「電話もあなたたちが持って行ってしまったんじゃありませんか」と大声で言いました。警官たちはすぐに上から私の携帯電話を持ってきて私に返すと、私を追い出し、警察署にとどめておいてはくれませんでした。こうして私は警官たちに追い出されてしまいました。

 家に戻ると、とても嫌な気持ちになりました。情という執着が再び湧き上がりました。私は夫のことを考えました。結婚してから多くの年が過ぎましたが、今まで離れたことはなかったと考えました。夫に私の慈悲をと、考えれば考えるほど情という魔が隙につけ込んで来ました。私は執着の中から抜け出せなくなり、何も食べたいとは思わず、眠りたいとも思いませんでした。最後には何もしたくなくなりました。ある日突然、私は「あなたは何をしているのですか? 苦しんで自ら抜け出せないというけれど、楽に三つのことを行えるはずがありません。これでは中国共産党に狂ったように迫害されているだけです。あなたは旧勢力が按配した道を歩むつもりですか?」と自分に問いかけました。「ダメです。私にこのような情はいりません。この情は私ではない。主元神、元気になって!」と考えると、さあーっと情という魔がいなくなり、体が軽くなりました。「なんと、人心を取り除くということはこんなにも素晴らしく感じるものなのか」と気付きました。私は思わず生命の奥底から「修煉は本当に素晴らしい」という感慨を発しました。

 情の魔は師父が取り去ってくださいましたが、やはり時々情が再び映し出されました。この執着の根はすでになくなっていることを知っていましたから、一念で認識できさえすれば、すぐに情の魔を取り除くことができました。頭の中に夫の声や姿が映し出されるたびに、私はそれが魔であることをはっきりと見分けました。それを取り除き「魔がまた妨害しに来た」と自分に気づかせました。しかし時には、夫と信念を同じくし、夫唱婦随で、互いに尊重し合う情景が映し出されました。その感覚は非常に心地良いものでした。私はそれが常人の考え方であり、人心であるとわかっていましたが、いつも取り除けませんでした。ある日、私は師父の『圓満成就に向かって』の経文を思い出しました。これが私の根本的な執着であることに気づきました。素晴らしい生活に対するあこがれだったのです。私はすぐにその執着をつかみました。以前、私には全く執着がなく、修煉がよくできていると思っていましたが、今見つけ出したこの根本的な執着は私をつかんで離さず、世間の美しいものを追求しようとしていたのでした。その執着に気づいた後は、簡単にその執着を取り除くことができました。

 私は学法を強化し、しっかりと執着心を取り除きました。人心を取り除くための師父の按排はびっしりとして隙がないかのように感じられました。一つの人心を取り除くとまた一つの人心がぶり返して来て、途中で中断することはありませんでした。私も「少し休もう」などという考えすら持つことはできませんでした。師父の『二十年説法』を拝読した後、自分をしっかり修めることの重要性をさらに理解しました。自分をしっかり修めてはじめて、衆生を救うことができることを理解しました。自身の修煉が追いついていないために、法の威力がなく、それなら人を救うことはただの仕事になってしまいました。もしかしたら人の害になり、神聖な人を救うという使命が常人の仕事になってしまい、時間を浪費し、縁を逃してしまったかもしれませんでした。

 夫が留置場へ不当に連行されてから、私は何度も警察署へ夫の引き渡しを要求しに行き、警官たちに奪われたお金や物の引き渡しを要求しました。毎回、私は微笑みながら警官たちの前に現れ、理性的に警官たちと話をしました。なぜなら私の心の中には恨みや恐怖心はなく、警官たちも救い済度されるべき1人であり、警官たちが邪悪ではなく、警官たちの背後にある他の空間の邪悪が警官たちをコントロールして悪事を働かせていたからです。私は「大法修煉者の慈悲は本当に苦難を超越している」と思いました。警官たちも私に対して悪くできませんでした。ある警官は私に対してとても礼儀正しく接しました。話ができる時は警官たちに真相を伝え、真相が受け入れられない時は、警官たちに対して心が痛みました。警官たちは私に国保大隊へ行くように教えました。なぜなら現在、夫の件に関して国保大隊が介入してきたからでした。

 私が公安局に行って国保大隊に会うと、国保大隊は「他にも累積している案件があるから」と言って自分たちの責任から逃れようとしました。国保大隊に一度会うだけでも大変でした。電話で予約を取るのですが、ある時は会議やある時は出張で、そうでなければ用事があると言って言い逃れました。どうしたらいいでしょうか? 私は国保大隊に手紙を書くことを思いつきました。筆を取って、法輪功の真相と、大法を迫害することは自分に災難をもたらすことだということを国保大隊に伝えました。法輪功修煉者はいつでも平和的に、そして理性的に迫害に反対していることを国保大隊に伝えて、慈悲心を覚醒させました。私は師父の『洪吟三』「縁を話す」の中の歌詞を思い出しました。「人海茫々たりて遇ひ難し 偶然の遇いに微笑むも縁によるもの 心を静めて真相を聞こう この言のためにあなたは千年も待った」。私はこの詩を書き終えて「これは私たちの師父のお言葉で、私たちが人を救う時、心は慈悲に満ち、師父の広大な佛恩に対して新しい理解を得るのです」と伝えました。

 私がこの手紙を国保大隊に手渡すと、国保大隊の人は少し恐れ(国保大隊を告訴する手紙だと思ったため)、手紙を封筒から引き抜いて、手書きの手紙だと見てとると受け取ってくれました。

 今回、不当に連行された同修は皆、資料拠点の同修でした。ある同修は他の資料拠点のメンテナンスも担当していたので、私の地域の資料拠点のメンテナンスや消耗品の購買も苦しい立場に追い込まれてしまいました。何人かの同修が私に解決を求めに来ましたが、私は不快な気持になって「同修(実は私の夫)を救出しなければならないのに、あなたたちはまったく私を手伝ってくれない。現在、私はこんなにも困難で、家もばれてしまっているのに、さらにあなたたちを手伝えというのか」と思いました。私は怒りを感じました。しかし心を静めて「これは『私』ではないのか?」と考えてみました。資料拠点を維持することで夫の救出が遅れるのではないかと恐れることは、自分がやりたいことを選んでやっているということでした。私は留置場で師父に助けを求めた時のことを思い出しました。三つのことをしっかり行うことを師父に承諾したのではなかったのでしょうか? どうしていい加減なことになってしまったのでしょうか? そこで私は恨む心と私心を取り除き、まだ技術の熟達していない資料拠点を手伝うことにしました。

 時には自分へのプレッシャーがとても大きいと感じました。というのも「内部の同修が私を売った」とか「中国共産党が私を迫害しに来る」などのうわさが絶えなかったからでした。私は精神的に路頭に迷ったのでしょうか? 私は選択に直面していました。10数年に及ぶ迫害は非常に厳しかったのですが、大法修煉者として正々堂々と、私心なく率直に行いました。以前は路頭に迷うような生活もしましたが、そのゆさぶられるような路頭に迷う苦しみは、大法の「正」とはやはり大きな差があったことに気づきました。私はやはり心を落ち着かせ、家で修煉することを選択したのでした。

 家族が不当に連行されてからの数カ月間、私は心を静めて学法し、法理を正しく悟り、無条件に執着心を取り除きました。同修の救出に出向き、三つのことを行い、私自身が目覚ましい勢いで向上していることを感じました。以前は多くの時間を浪費してしまい、師父の慈悲な済度に合わせる顔がないことにすぐに気が付きました。私は師父が説かれた「ですから、良いことにあっても、悪いことに遭っても、大法さえ修めていれば、全ては良いことです。これは揺るぎのないことです」[1]を理解しました。実際、不当に連行され迫害されたことは良いことではありませんが、私たちがそこから向上することができ、常人の観念を変え、教訓を得て、自分を正し、修煉して神になる道をさらに一歩進むことができれば、それは良いことになったということではないでしょうか? これらの魔難は修煉の道を平らにするために私たちに与えられたものではないでしょうか?

 話さなければならないことはたくさんありますが、全部話すことはできません。私たち大法修煉者が精進することを本当に望んでいます。再び無関心で消極的になってはならず、師父の教えの通りに立派に修煉者としての責任を果たさなければなりません。なぜなら本当に時間は残り少なく、修煉の機縁は過ぎ去ろうとしているからです。

 はじめての投稿ですが、適当でないところがあれば、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。

 合掌

 注:
  [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』

 (明慧ネット第9回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/29/264314.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/12/14/136663.html)
 
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