90年代生まれの大学生 大法を学び真に目覚める
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文/中国の大法弟子 紫苑

 【明慧日本2016年9月20日】早足で急いで歩いている時、道端に咲いている花を気にすることがあるでしょうか? 携帯電話に夢中になっている時、頭上に広がる果てしない青空を仰ぎ望んで見ようと思うでしょうか? 私達は日々忙しくしていますが、心を静めて自分に、「何をそんなに忙しくしているの?」と問いかけたことがあるでしょうか? 「毎日毎日一所懸命に仕事して家族を養い、子供たちにもっと豊かな生活環境を提供したい」と答える人がいるかもしれません。確かに、親孝行をすること、子供を育てること、それは人々が果たさなければならない責任です。しかし、仕事以外に本を読んだり、或いは、自分の心と向き合って、「私は誰なの、どこから来たの、将来どこへ行くの」と自問自答することがあるでしょうか?

 少し前まで、私は無知で何も考えずに生活が楽しければそれでいい、財産が多ければ多いほど幸せだと考えていました。両親が健康で自分にも円満な家庭があれば、もう心残りはないと思っていました。この願望を実現するため、この競争社会の中で、私は次第に人と競い合い奪い合うことを学び、甚だしきに至っては、自分が手に入れることが出来なければ、他人の手にも渡さないとう言うことすら覚えました。しかし、他人を踏みつけていれば、自分が成功したと言えるでしょうか。答えはノーでした。実際、私は知恵を絞り切り努力を尽くしましたが疲れ果て、結局のところ思い通りにはなりませんでした。最後になって、私はこの世の不公平さを愚痴にし、汚い手口で富を手に入れる人を憎み、他人の輝かしい成功を妬みました。私は諦め切れず降参せず、どうすれば 他人よりも一段と優れた者になれるかを考えました。小さい時から伝統文化に興味を持つ私は、本の中から知恵を見つけようと思い、古典書籍を貪るように読みました。しかし、古人の精神教養の素晴らしい部分を吸収せず、名言や警句などを使って闘争心を隠し、計略として活用しました。私が言っていることとやっていることは、いつもちぐはぐしていて、全く相反していて間違っていました。

 大学2年生の時、私と彼は共に法輪大法に出会いました。法輪大法は一筋の光のように、私の心の底まで差し込みました。以前、私はずっと自慢げに、名誉や利益を少し求めたとしても、極悪非道な悪事をしたこともなく、度量が狭いけれど、不平不満を愚痴った程度で、汚職や賄賂を受け取る人達より、また、殺人や放火する悪人より、自分は知識も教養もあって、自分をコントロールする能力があると誇らしくさえ思っていました。しかし、法輪大法を学んでから、宇宙の特性の「真・善・忍」に照らし合わせて見ると、自分の心がどれだけ汚く、自分はどれだけ惨めで、悲しいものかがやっと分かりました。なぜなら、今までの自分は社会的地位をいかに確立できるか、そればかりを考えていつも威張りちらして、自分の行為は他人にどれだけ害を与えたかを考えたことがなく、自分の人生は一体何のためにあるのかも、考えたことがありませんでした。

 小さい時から、私はずっと唯物論を信じ、人間がサルから進化してきたことを信じていましたが、善悪には報いがあることや生命の輪廻転生を信じていませんでした。しかし大学に進学した時、なぜか、一部の人たちに偽科学と思われている中国医学を選びました。私の心の内では、病気治療によって人の命を助け、人から尊敬と称賛を得たいと言う目的を持っていました。しかし、勉強していくにつれて、次第に人徳の大切さが分かってきました。古代の医学者達は、名誉や利益に淡泊で、道徳を重んじ、弟子を選んで医術を伝承する時、人柄をとても重視していたことが分かりました。医学者の孫思邈は、『千金要方・大医精誠』の中で、「医者が病気治療を行う時、必ず精神を安定させ、気持ちを定め、欲求を無くし、広大無辺な仏の大慈悲で哀れに思う気持ちを出し、魂の苦しみを救う願いを持たなければならない」と書いています。今、多くの病気が西洋医学ではすでに手の施しようがなく、最後には漢方医薬により、病気を治すことが多くあります。古代の医術が絶妙の域に達しているのは、彼らには超能力があったからです。たとえば『史记・篇鹊传』の中で、扁鹊の場合、「壁の向こう側にいる人が見える透視能力を持っていました。彼はその能力で、内臓の病気を見抜くことができるのです。彼にとって、脈を取るのは、ただ形だけのものに過ぎない」との記述がありました。そして、この超能力は修煉によって得られたものだとも分かりました。私は大法に出会ってから、自分の何もかもが定められたものだとすぐ信じるようになり、師父がずっと私を見守ってくださったことを確信しました。そのおかげで、私は名誉と利益を求める欲望に目がくらんでいましたが、いくらかの伝統的な価値観を守リ抜くことができました。お年寄りの人はよく善行をして徳を積めば、幸福と長寿を手に入れることができると言っています。師父は法の中で、徳について、とても明確に説かれています。それは、私の法輪大法を修煉する意志をさらに強くしてくださいました。法を習った後、中国医学に対する理解は飛躍的に前進しました。

 法輪大法を修煉する前、私の容貌は平凡でした。おでこは狭く、鼻が丸く、顔が大きく、右の前歯は出っ歯で、肌も黒く、五官のどれもすぐれません。古人が云うには、「相は心から生じ、外見の良し悪しは、その人の心から現れてくるものである」ということです。彼はいつも冗談で、「あなたのおでこが狭いのは、名誉を求めるために削ったからでしょう。目が小さいのは狡(ずる)いからでしょう。大きな鼻は浪費癖があるからでしょう。顔が大きいのは目立ちたがっているからでしょう。出っ歯は人の後ろで悪口を言ったからでしょう」と言いました。絶えず法を学ぶことによって、自分の問題を次第に意識するようになりました。しかし、日常生活の中では、依然としてマイぺースな態度を取っており、あまり大きく改善されませんでした。そこで、師父は同修の口から、「問題を意識したら、行動を伴わなければならない」と私に注意してくださいました。師父は、「しかし往々にして修煉者は、修煉は非常に難しいと思いますが、なぜでしょうか? 実は修煉は難しくありませんが、難しいのは常人の心を放下できないからです」[1]とおっしゃいました。そこで、「社会の大きな染め甕の中で変わり果てたわが心を正視して、必ず返本帰真して、感染された汚いものを全部きれいに洗浄しよう」と私は決意しました。

 たゆまず法を学び続けました。「真・善・忍」の基準に基づいて、自分に要求し、自分のやることなす事、一思一念を法に照らし合わせて、問題に遇えば自分自身の原因を探しました。そして、次第に名誉や利益を淡泊にしました。法を得る前、学級委員を選ぶ時、私はいつも学友と仲良くして、票を集めていました。今は、もっと能力のある人、もっと適任の人に譲り、冷静に対処するようになりました。法を習って一年が経ちましたが、友達は皆綺麗になったねと褒めてくれました。師父が私を整え、修正してくださっていることを、心の中でよく分かっています。大法の法理に基づいて行動すると、人間は美しくなります。それは人為的に整形したり化粧したりするよりも、もっと効果的です。これは外部の何かによって到達できるものではありません。

 今、多くの人の本当の病気は、心の病気です。なぜなら、信仰心がなく、道徳も低下しているからです。体の病気が治療できても、心の病気を治癒することはできません。それはずっと私を困惑してきた課題でした。今、私は人生の目的が分かりました。私たちは人を救うために、師についてこの世に降りてきたのです。中国共産党の騙しや洗脳は、世間の人々を広く騙しています。今の人は善悪には報いがあることを知らず、天国と地獄を信じていません。中国共産党は自分の政権を強化するため、いわゆる「地上の天国」を宣伝し、無神論と進化論で人々を洗脳しました。人々は「偽、悪、闘」に汚染され、人間性を無くし、自分の本性を忘れ、思想の束縛に深くはまり込んでいます。今、大法弟子は法を正す師に手伝い、衆生を救い済度し、世の中の人が本当の自分を取り戻せるように導く努力をしています。世の中のすべての人に、正義と善良を、そして、「真・善・忍」の道を歩むことを選んでいただき、素晴らしい未来を、ぜひ選択していただきたいと心から願っています!

 注:
 [1]李洪志師父の経文 『シドニー法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/9/10/334224.html )
 
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