法を暗唱することで真に法を得 大法の玄妙さを体験する
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文/湖南省の大法弟子 新生

 【明慧日本2017年5月23日】私は1999年から法輪功を修煉しはじめましたが、最近になってやっと大法とは一体何か、真の自我は誰か、人間が数千年来探し求めていたものは何かなどに対して、理性的に深く理解することが出来ました。そして正法修煉の機縁の貴重さを認識でき、三つのことをしっかり行うことの緊迫感を感じ、今まで世間の名、利、情に迷って着実に修煉せず精進しなかったため、たくさんの時間を無駄にしたことをとても悔しく思いました。

 十数年の修煉の中でかなり長い間、ずっと三つのことを行ってきたにも関わらず、常に自分と大法の間に間隔があるように感じました。自分はただ大法が素晴らしいと思うだけで、信じているようで実は完全に信じていない、修煉しているようで実は修煉していない人にすぎず、真の大法弟子とは言えないと心の奥底で感じていました。1999年ごろには明らかに下腹部で法輪が強烈に旋転していることを感じ、また師父が私の天目を開いてくださる時、前額あたりが内側に入り込もうとすることも感じましたが、長い時間無神論と現代科学に欺かれたため、師父と大法を信じているようですが信じておらず、理性的に大法を信じる真の大法弟子になることが出来ませんでした。長い間法を暗唱することで、ようやく真に理性的に大法を認識することが出来ました。次にこの方面での自分の体験を紹介します。法に基いていないところはご指摘をお願いします。

 地元の多くの同修学法の体験を交流する時よく『轉法輪』をたくさん読んだので最初の部分を読むとすぐ次の部分を思い出していても、何の法理も学んでいないようで、ただの字面の理解だけに留まっているようだとよく言います。私はこのような学法の仕方では、もっと高い次元の法は得られていないと思います。実は私も長い間同じ状態に留まっていました。真の自我は非常に苦しくて、心の中では真に法を得ることを切に望んでいました。しかし本当に学法すると再び無神論と現代科学の教育で生じた観念に阻まれ、長い間常人の生活で形作られた可笑しくて、哀れな観念で大法を量り、さらに学法する時潜在意識の中では、字を増やしたり字が漏れたりしていました。もちろんこのような学法では大法の神聖な内涵が悟れないばかりか学法とはいえず、ただ本を読んでいるだけに過ぎませんでした。

 長い間私はこのような状態に留まっていながらも、心の中でずっと大法を尊敬していました。それで「今生で高徳な大法にめぐりあったから、必ず大法を暗唱して心の中に永遠に覚えるべきだ。修煉がよくできるかできないかに関わらずひたすら頑張って暗唱して得られるだけ得ればいい」と決心しました。そして長い間法の暗唱を堅持することによって、知らないうちに以前の「読書」の状態を徹底的に変えることができ、大法の神聖なる内涵も絶えず現れ、本当に理性的に大法の法理を理解することができました。経験として主に次のようなことが挙げられます。

 一、人為的に毎日どのぐらい暗唱するかを決めることなどは、やめたほうがいいと思います。そうすると自分に任務を課することになるので、ただ任務を完成するための「読書」をしただけで、本当は法を学んでいません。暗唱した文字の数を問わず、必ず大法の神聖なる内涵を本当に悟るように自分に要求することです。真の学法は任務を完成するための「読書」ではありません。

 二、毎回学法を始める前、心の奥底から大法の本の一つ一つの文字、一つ一つの言葉の背後には尽きることのない佛、道、神がいらっしゃる、と固く信じ、毎回心の奥底から自分が今学んでいるのは数え切れない宇宙(人類を含めて)を創り出した偉大な天法であり、心から敬う心境と姿勢で学ぶべきだと自分に注意を与えます。

 三、考えの中の全ての常人の思惟をなくし、求めずに自ら得るように学法し、自分の生命の最もミクロから最もマクロの全ての粒子が無条件に大法に同化するように要求します。

 このように堅持したらますます大法の玄妙さを体験でき、徐々に真の自我がますます目覚めていくのを感じ、学べば学ぶほど学びたくなり、もう大法から離れられなくなりました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/8/345287.html )
 
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