師父の恩は広大である
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文/カナダの大法弟子

 【明慧日本2018年7月3日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは!

 同修のみなさん、こんにちは!

 神韻の大きな幕が開き、師父の「私と共に世に下り、衆生を救い済度せよ!」という声が響き渡った時、一瞬にして師父の無量な慈悲が寰宇(訳注:全世界)を駆け抜け、私の身も心も貫き通す感覚を覚えました。私は全身が震え、目に涙がにじみました。久しい誓約がかすかに蘇(よみがえ)り心の中でこだましました。私は心身ともに今までなかった軽やかさと喜びを感じ取り、生命が救われ、業力が消去された後の、言葉では言い表せないうれしさを覚えました。

 二十数年の修煉の道を振り返ってみると時々刻々、師父に加護されてきました。この機会をお借りして、最近の僅かな修煉体験をここで師父にご報告申し上げ、同修と分かち合いたいと思います。

 一、師と法を信じ 生死の関を乗り越える

 2016年下半期に私は巨大な魔難に遭遇しました。最初はものを食べられず、夜になると胃の痛みで幾晩も眠れませんでした。私は絶えず発正念しました。昼の時間帯はいつも通りの仕事をし、「自動車の旅」活動に参加しました。体の情況は良くなったり、悪くなったりしていました。

 その1カ月後、突然身体が痩せ始めました。数日間で体重が数十ポンド(訳注:20キログラム前後)減り、皮と骨しか残りませんでした。激烈な痛みは胃から盲腸に移り、当時、私はすでに意識が少し朦朧とし、息が非常に細く弱々しくなりました。しかし、私は心の中で旧勢力の按排を認めず、師父について家に帰りたいという一念が非常にはっきりとしていました。言葉では表現できない苦しみと煩雑な意識の中で、私は全精力を集中して、繰り返し次のように考えていました。「私は師父の弟子だ、旧勢力には私に試練を与える資格なんか全くない、もし私に漏れがあるとしても、私は大法の中で正す」と

 現地の同修が一緒に私のために発正念し、私と一緒に学法し、煉功しました。一部の同修は私の意識がはっきりせず、『論語』をはっきりと暗唱し終えない状態をみて、非常に心配しました。ひいては私を病院に送るべきではないかという念まで出てきました。家族の中の修煉しない者達も大変心配になって、無理やり私を病院に送ろうとしました。

 しかし、「私は自分が修煉者であり、師父はとっくに私の身体を無病状態に調整してくださった。現れたこれらの魔難はすべて虚像であり、すべて良いことだ。これらは関を乗り越える中で私の心性を向上させ、業力を転化し、功を伸ばさせるための試練である」ということをはっきりと知っていました。私は家族に対して、「自分は現在意識がはっきりとし言葉も話せるし、もし病院に送ったとしても、私が治療を受けないと堅持すれば、病院側も私の選択を尊重してくれます」と伝え、またさらに、「もし私の天命がまだ尽きていなければ、病院に行っても行かなくても同じことで、別に何の変わりもありません」と家族にはっきりと伝えました。「病院に行かずに自宅にいたら苦しみを多く受けるかもしれないが、それだけ良くないものを取り除くだけです。もし、人がすでに天寿が来て、この世を去るべきであれば、病院もこの結果を変えることはできません。しかし、修煉者の一生は変えられます。師父は私のために新たに修煉の道を按排してくださったのです。この道を歩んでいるからこそ、救われる望みがあるのです。今この時、強制的に私を病院に送ったら、唯一救われる希望を失わせることになるのではないですか。逆に私に害を与えるのではないですか」。私は家族達に対して、「もし本当に私のことが心配であれば、『法輪大法はすばらしい! 真・善・忍はすばらしい!』と多く念じ、師父に私を救うように求めてください」と伝えました。家族は私の選択を尊重し、「法輪大法はすばらしい! 真・善・忍はすばらしい!」と念じ始めました。

 当時、私はただ柔らかいマットに身体を寄せて、静功をすることしか出来ませんでした。身体の痛みは座禅の痛みを遥かに超えるものでした。ですから、私は比較的に静功をやりたがりました。しかし、修煉者として、毎日五式の功法を必ず揃えてやるべきということを知っていました。身体が極めて衰弱しきって、痛みに耐えられませんでしたが、それでも私は第二式の功法をやりました。最初は2分も続けられない情況でしたが、私は腹をくくり、師父の加持のもとで、歯を食いしばって動功をすべてやり抜きました。やり終えた時には全身びしょ濡れになりました。それ以降、第二式の功法のことを考えると恐ろしくなるほど凄まじいものでした。朝にやらず、午後にやろうとしました。しかし、私は絶えず堅持すべきだと自分を励まし、それからずっと続けました。
 師父は「修煉者にとって模範はなく、各人の歩む道も異なっています。なぜなら各人の基礎が異なり、各種の執着心の強さが異なり、生命の特徴が異なり、常人の中での仕事が異なり、家庭環境が異なる、等々の要因によって、各人の修煉の道は異なり、執着を捨てる状態は異なり、遭遇する関の大きさが異なっているのです。ですから、表面的に、ほかの人が用意してくれた道は非常に見つけにくく、都合の良い乗り物に便乗することは、さらに不可能なのです」[1]と説かれました。

 私は心の中で、自分が正念をもって正しく行うべきだと非常にはっきりと分かっていました。回復の過程が想像していたよりはるかに遅く、旧勢力はまるでわざと魔難を延長し、私の修煉の自信と正念を消耗しようとしているかのように見えました。私は絶えず自分に落胆しないように、意地がないながらも、ずっと失敗を重ねながらも、なんと言っても法を正す大きな流れに乗って今まで歩んで来たので、必ず師父について家に帰るのだと言い聞かせました。

 私は生まれ変わる感覚を覚えました。最初は胃、次は右側の下腹と心臓、それから腎臓と肺、その次は四肢と、段階的に非常に苦しくなりました。この過程の中で、私は夜に一つの方向に向いて身体を立てて寝るしかなく、しかも寝つくことができず、頭の中ではまるで汽車が走っているようで、ブンブンと幾万種の雑音が響いているかのようでした。髪の毛はほとんど抜け落ち、生命を維持する以外、すべての身体の機能は停止してしまているかのようでした。

 私は毎日大量に学法と煉功をし、内に向けて探し続けました。修煉を始めてから少しずつ、執着を見つけ出すことが出来ました。私は修煉を始めた当初の純粋さと精進の念がなくなり、普段自分に対して厳しく要求せず、トラブルに遭遇するとただ表面的なことを論ずるだけになり、自分を探しておらず、時には表面的にできても、心の中では実際には放下できていなかったこと、また仕事に陥り、仕事を修煉とみなし、ひいては焦る気持ちと自分を実証したい心まで生じていたこと、安逸の心が生じていたこと、常人の中の安楽と享受を追求していたこと、人聞きの悪い言葉を聞きたがらないこと、また至るところに恨む心があったこと等々にも、やっと気づきました。

 恨む心を例にすると、それは私の修煉の中で影のように付きまとい、完全に取り除くことは難しかったのです。私は自分が人と利益の面で争わない、自分が損をしても人を冷遇しないと思っていましたが、このようなおおらかな寛容さは修煉の中で修めた慈悲ではありませんでした。ですから、内心の深いところでは常に認められることを切に望んでいて、人に褒められたがっていました。自分が受けた大きな苦しみを他人が知らないことをとても心配していました。根本から言うとやはり名利を求めていました。トラブルが発生した時、往々にして自分が間違ってない、ひいては自分はたくさん代価を支払ったと思い、非常に苦しみを覚えていました。プリプリと腹を立て、我慢できず他の同修に伝えたりして、話せば話すほど怒りがこみ上げてきました。非常に長い間、私はこの状態に陥っていました。察知できていながらも、それらを本当に取り除こうとしていないことにも気づきました。そして、私はそれを取り除くことを決めました。発正念する時、この執着に対して、特に「恨む心」を取り除くという一念を加えました。他の空間にいるその霊体が正念により解体できると信じていました。

 私はまた自分にもう一つの問題があることにも気づきました。それは、いい加減で、だらしないことでした。多くのことにおいて、大まかなことが正しければそれで問題ないと思い、同修に指摘された小さなことを気にせず、その背後の執着を探しませんでした。普段出会ったり、聞いたりしたことを重視せず、ひいては自分は心が広く、何も気にしない人間だと思っていました。実際は内に向けて探す習慣がまだできていませんでした。生活の中で、仕事の中で、私達が出会ったいわゆる小さなことは、実際すべて私達の頑固な心に向けてやって来たものでした。少し気を緩めると向上する機会を失い、邪悪が迫害する口実になります。師父はこう語られました。「あなたはそれらの小さいことを軽視しないでください。邪悪は隙に乗じてくるのです。多くの学習者は小さい過ちのせいで命まで失いました。本当に非常に小さいことが原因だったのです」[2]

 現地の同修も集団学法と交流を実施し、皆の長期にわたる私に対する依頼心、私がよく修煉できていると思う心と、各種のマイナス的な考えなど見つけ出し、法理に基づき向上しました。

 関を乗り越える期間が半年に及び、その間の痛みは身体のいろんな部位に転移しました。表面上はあまり大きな変化がないようなので、私は少し焦りました。最大の苦しみは、一体自分の何の執着が旧勢力に口実を掴まれて、迫害されているかが分からないことでした。また自分がこの関を乗り越えられるかどうかも分かりませんでした。極めて苦しい時、心の中できっぱりとこの肉親を捨てようとさえ思う考えもありましたが、すばやく正念が生じて、揺るぎなく師父の按排された道を歩くことにしました。

 その後、私は何も考えないことにしました。自分の執着なんかも考えず、自分は真の大法弟子だ、真相を伝え、衆生を救い済度し、執着を取り除き、心性を向上させながら、深い感動を呼び起こすに足る20年間の修煉の道を歩んで来た。旧勢力には私に試練を与える資格なんか全くない。例え執着があるとしても、師父の按排された修煉の道を歩む中でそれらを取り除こうと考えました。

 こうして、身体は回復し初めてました。体重は70ポンド(訳注:30キログラム強)から110ポンド(訳注:50キログラム弱)以上まで増え、新しい髪の毛が生えてきて、手足の古い皮膚の皮が剥け、新しい皮膚が出てきました。この生まれ変わる過程において、私は感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいでした。師父がまたどのくらい心血を注がれたのかがわからず、ただ自分がこれから絶えず精進し、再び師父に心配をかけないことを強く望みました。

 今回の魔難を通して、私はやっと修煉の厳粛さを本当に認識し、自分が二十数年間、特にこの数年間しっかり修煉できておらず、ひいては修める方法もわからず、自分を本当に探すことを知らなかったと痛感(身にしみて感ずること)しました。修煉者として、内に向けて探し、内に向けて修める機制を形成してこそ、どんなことに出会っても外に向けて探さず、弁解しないようになるのです。ただ時々刻々自分を修煉者として扱い、トラブルにぶつかると内に向けて探し、自分の念を一つずつすべて修めていくことこそ、今後の道をしっかり歩むことが出来ます。師父は説かれました。「旧宇宙においても、新宇宙においても次のような理があります。つまり、一つの生命の選択は自分自身の意思によって決められるということです。歴史上何かの願いを立てたことがあるにしても、肝心な時、やはり自分の意思で決めなければなりません」[3]

 師父は旧勢力の按排を認めておられません。旧勢力には私達に試練を与える資格なんか全くありません。それならば弟子として、師父の按排された修煉の道を歩んでこそ、旧勢力の按排を徹底的に否定することができます。旧勢力の按排を徹底的に否定するには、私達は法の基準に準じ、内に向けて探し、自分の心性の向上に力を入れ、執着心を取り除いてこそ、やっと本当に師父が按排された道を歩むことが出来ます。

 二、旧勢力の妨害を否定し 隔たりをなくす

 師父はこう説かれました。「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[4]

 身体の巨大な難を受けてから、私は自分が本当に「私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」の境界から昇華し始めていると感じました。業力による拘束と人心の妨害がないと心身とも今までなかった気楽さと自在さを感じました。しばらくの間、大法を実証する仕事をする中で妨害されても、修煉の中でトラブルに遭遇しても、私はまるでひとそよぎの風のように感じ、いかなる影響も受けず、非常に自在でした。

 まもなくして、師父は私のために新たに修煉の環境を按排してくださいました。私は簡単で、単純な小さな都市から比較的複雑な大きな都市へ移動し、大紀元のプロジェクトに参加することになりました。

 移動する前、私に環境が複雑だから行かない方がいい、と忠告する同修もいました。しかし、私は修煉者の出発点から詳細に考えると、自分の修煉の道は師父が按排されるものであり、師父の按排された道を歩んでこそ自分の使命を全うすることができるので、困難に直面して退くことはできないと認識しました。そして、すべては大法を実証することを出発点として、大法弟子として行うべきことを行い、正しい道を歩むしかないし、「無私無我」で「人を先に、自分をあとにする」[5]という正覚を持ち、すべてに直面してこそ、師父の期待に背かないことになると認識しました。

 しかし、プロジェクトを進める過程において、各種の障碍と妨害に遭遇した時、各種の人心の現れを目にした時、一部法理に基づいてないことにぶつかった時、またもや自分の穏やかな内心が自ずと波立ち、一部の同修に対してある見方が生じ始め、抵触の心が生じ、ひいては耐えられず他の同修に文句を言い始めていることに気づきました。その現れとして、この空間では多くの大会社がそろそろ契約を結ぶ時期になる頃、突然契約を取りやめたり、連絡が取れなくなったり、契約を延期することになりました。私の心の中はすっきりしなくなりました。

 ある日の朝、大紀元のオフィスで集団学法した後、客先に訪問に行こうとした時、自分の運転している車の両側のドアに小鳥の糞がたくさん散らかっていることに気づきました。同行する同修が「あなた、どうしたの? 小鳥はどうしてあなたの車を選んだのでしょうか」と冗談混じりに言いました。私の心が少し動きました。「そうね、師父は私にまた何かを悟らせようとしていらっしゃるのかしら」

 私は最近大紀元の論評の中で提言された三大メディアが真相を暴くことを阻止するため、中国共産党はこれらのメディアに浸透して破壊活動をし、各種のメディア間のトラブルと内紛を作っていることを思い出しました。私は自分がプロジェクトに参加している中で、一部法理に基づいていないこと、仕事に協力してない同修に対して本当に慈悲な念をもって対応してないことなどは、実際、すでに旧勢力の罠にはまっており、少しずつ隔たりを形成していることを見い出しました。

 師父はこう説かれました。「皆さんが純粋で浄らかな心の状態の下で行なうことこそ、最も良いことで、最も神聖なのです」[6] 私は自分の心理状態がすでに純粋さから離れており、真心で同修と交流して問題を指摘しようと試みましたが、知らず知らずのうちに一部マイナスの情報を伝えてしまったことに気づきました。根本的にトラブルから自分を切り離し、自分の無罪を公表するのは根本的には「私」(し)であって、まさに旧勢力が求めているものでした。私は心の中で、自分に口を修めるように言い聞かせ、絶対自分の口からいかなるマイナスなことを二度と言わないことにしました。ひとりの常人がトレーニングの中で、マイナスな思惟を取り除くことを説明する時、こういう話がありました。例えば駐車場に停めていた自分の車がなんの理由もなく人にぶつけられたとして、自分と関係ないと思ってはいけないこと。なぜなら、あなたは事故を起こした当人に直面するかもしれず、その時どんな態度をとるのか、理知と冷静さを保てばプラス思考であり、怒りと激動する態度を取れば、それはマイナス思考であると言いました。それならば修煉者はさらに師父の教えに従い、慈悲をもって同修を含めた周りの人達に接し、同時に自分の不足を見つけるべきです。

 現地の大紀元のセールスのチームで交流する時、1人の同修が隔たりに関する師父の説法を読み上げました。

 弟子:学習者の間の隔たりはどのように形成されたのでしょうか? どのように取り除くのでしょうか?

 師父:人心がぶつかり合い、内に向けて探さず、双方とも人心をもって問題を考え、お互いに見下していれば、時間がたつと、隔たりができてしまい、合わなくなります。常人と同じです。正念で問題を見て、双方とも自分のどこが良くなかったのかを考え、自分が本当に正しく行うようになれば、相手もあなたの変化に気づき、自分のどこが良くなかったのかを考えるようになり、このようにすれば隔たりが現れることはありません。隔たりを取り除くときも同じであり、同じ法を修めており、同じ縁を持っているのに、放下できないものがあるのでしょうか? 真摯に相手と意見交換し、指摘された不足を受け入れることができれば、問題が解決されるのではありませんか? [7]

 そうです。隔たりをなくすには内に向けて探し、自分を修め、同時に善を持って他人に対応すべきです。修煉の中で法の基準に従って、自分のすべての念を正し、旧勢力の私(し)の束縛から飛び出すべきです。師父は夢の中で、また私に多く発正念するようにと悟らせて下さり、私が発した正念が人類の空間場で表した巨大な威力を見せてくださいました。私は、隔たりが出来た時は、旧勢力が同修のまだ修めきれてない人心の隙きに乗じている時であり、発正念で旧勢力の邪魔を取り除き、同時に法理に基づいて向上すれば、隔たりを取り除くことが出来ることを認識できました。

 また大法弟子として、主佛の弟子になり、法を正す時期の大法弟子になったことで自惚(うぬぼ)れる可能性があり、自分の超常的な能力のために、自慢の心が生じるかもしれません。ことわざに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」( 人間も本当に偉くなればなるほど、謙虚な姿勢で人と接することが大切である)というのがあります。大法弟子はみな能力があり、この能力はすべて師父が授けてくださったものです。私達が修煉の道を全うしてきたすべてのことは、師父が全部おやりになったことです。師父は私達の1人1人に異なる能力を付与してくださり、それは他でもなく私達に大法を実証させ、世の人々を救い済度させる過程において、異なる責任をそれぞれが背負い、自分の使命を全うし、自分の神聖な誓約を実現させるためです。

 私はこのような機会があって、心を静めて自分の修煉過程を振り返ってみることが出来たことを非常に嬉しく思います。なぜなら修煉は他でもなく向上することにあり、一つの状態に留まる時間が長くなると麻痺せざるを得なくなり、ひいては自分が偉いとさえ思うからです。私は法を正す最後の時刻に、すべての大法弟子がみな理性をもって自分の修煉に対応し、すべてのことに対して大法を基準とし、善悪の基準をもち、再び旧勢力に利用されて多くの隔たりを形成することがないように、私達の修煉環境を純粋に保ち、確固たる一つの全体をなすことが出来ることを望みます!

 最後に師父の説法をもって皆さんと励まし合いたいと思います。

 「静かに思う 幾多(いくた)の執着の事を
 人心を片付けば悪は自ずから敗る」 [8]

 師父に感謝いたします。
 同修の皆さんに感謝します。

 不適切なところについては慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作: 『精進要旨二』「道」
 [2] 李洪志師父の経文: 『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作: 『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」
 [4] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「境界」
 [5] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [6] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「再認識」
 [7] 李洪志師父の著作: 『各地での説法十一』「二〇一〇年ニューヨーク法会での説法」
 [8] 李洪志師父の詩: 『洪吟二』「哀しむ 別れ」

 (2018年ワシントンDC法会での交流原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/6/28/370324.html)
 
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