怨恨心に対する再認識
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年8月14日】師父が私達にこのように説かれています。「人間には情があります。怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです」[1]

 私は怨恨心(えんこんしん)も情による派生物質で、私心から生まれたものであることを悟りました。情は生命が高次元から低次元へ降りて行く過程において、異なる境界の中で各自の因縁が交わって、もたらしたものでもあります。常人社会での表れとしては他人への不平不満や、他人を嫌悪する気持ちなど、みな情の顕れですが、本質は全部自我のために取った行動です。法から私達は学びました。この「私(し)」は旧宇宙の生命の特性で、旧宇宙の生命の成、住、壊、滅という全過程に貫通しています。一般の修煉者にとって、怨恨心は生命の深層に潜んでいるため、完全に取り除くことが非常に困難です。しかし、大法が創り上げた生命だけが、この執着心を取り除き尽くすことが出来ると思います。

 修煉の過程において、怨恨心の顕れは時々曖昧で、修煉者にもたらした影響も大きいのです。たとえば、不平不満を感じることや、腹を立てたり、怒りを爆発させたり、気分を悪くしたり、人を妬んだり、喜んだり、嬉しくなったり、至る所に怨恨心が隠れています。同修との間に小さな衝突が起きた場合、自分の修煉が足りていない、包容力が足りてないように捉えがちですが、実質上、奥底に怨恨心が害をなしているのです。一つ例を挙げます。この間、同修Aが同修Bに経済的な面において、旧勢力が加えた迫害を取り除く手助けをした際に、ほかの同修、さらに同修Aの家族の方の誤解を招くことになりました。同修Aはまわりの同修が自分に対する誤解を避けるため、また安全面から考慮して、公の場では極力に同修Bからの援助を回避するようにした結果、自分自身の負担が増えました。時間が経つにつれ、徐々に同修Aの内心から同修Bへの怨恨心が生じるようになりました。同修Bはこれらの出来事を上手に治めることが出来ないために、その結果として、自分が苦労をしたと同修Bに不満を抱きました。どこそこを直してほしいと、うわべから見たところでは同修Aは常に同修Bに助言しているように見えますが、実は同修Bに抱いた怨恨心がもたらした行動だったのです。その心は深く隠されているため、表に顕れていないだけなのです。

 それでは、修煉者は修煉過程の中で、なぜ怨恨心が生じるのでしょうか? その根本的な原因は自我を放下できないからだと思います。怨恨心が修煉者の間で際立った顕れは、自我を中心とする行動です。時にはごく些細な出来事でも怨恨心が生じるのです。真に修煉したいのなら、無条件に内に向けて探さなければなりません。他人はどんな態度を取っても、一笑に付するだけでマイナスな要素が生まれません。怨恨することは外に向けて探し、人を恨み、自分を修めないことです。それならそれは、旧宇宙の生命と同じ行いです。旧宇宙の生命は他人を変えて自分を変えたくない考えなのです。私達修煉者は善を修めているのではないでしょうか。善を修めているからには、他人のために考えて、他人の不行き届きな点を執着せず、旧勢力が同修に押し付けた不本意な状態を全面的に否定することです。他人に慈悲な心を持って接していれば、怨恨心はまだ生じるのでしょうか?

 怨恨することは善ではない、我慢しないことであり、すなわちほかの生命を受け入れることが出来ないことです。仮に同修に至らない処があったとしても、慈悲を持って同修に接し、同修を受け入れ、善意でもって相手の不足を教えなければなりません。方法としても、純粋に相手のことを思い、程よく相手の様子を伺いながら進めていくことが妥当だと思います。

 法の中から、今世、この世にいる大法弟子は地上に降り、法を正される師父に従い、師父の後についてきた各宇宙蒼穹の代表者であることを知りました。同修の皆は、一人一人偉大な神としての輝く光輪を打ち捨てて、衆生を救い済度する大志を抱き、天上から地上へ向かい、無数の苦しみに耐え、甚だしきに至っては、自分の宇宙のすべての苦しみを舐め尽くしました。しかし、私達にはどうして、同修がただ常人社会に迷い込んだり、あるいは、自分と観点が違うだけを理由に、分子で構成したこの世のいわゆる低次元な物質で、同修を埋めてしまう度胸があるのでしょうか? 大法弟子は衆生を救い済度しに来たのではないでしょうか!! それでは同修の衆生はどうすればよいでしょうか。同修が輪廻転生した時に縁を結んだ生命達はどうすればよいでしょうか? 慈悲を持って同修を呼び覚まさせるどころか、かえって愚痴や非難を用いて同修を逆の側に押し出すのですか? どうして旧勢力が大法弟子を迫害する手助けをすることができるのでしょうか。しかも、同修の不本意な修煉状態は、みな旧勢力に無理強いされたものであり、旧勢力の企みであり、初めから同修の本性の顕れではありません!

 自我を放下して、異なる次元の生命を受け入れて、大法弟子は互いに助け合い、手を携えて自分の家へ戻りましょう!! 怨恨心を徹底的に解体して、正法正覚の偉大なる大覚者のような包容力を修め、よりもっと広範囲の衆生を包み込むことが出来なければ、円満成就した時、不満に思う衆生が私達に消されるかもしれません。それでは私達の世界にまだ衆生が生き残れるのでしょうか?

 注:
 [1] 李洪志师父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/27/371565.html)
 
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