怨恨心の根源は「私(し)」である
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文/河南省の大法弟子

 【明慧日本2018年8月7日】昨年の8月頃、ある同修Aさんから一度会って話がしたい、という手紙をもらったので、時間を作って彼女の家に向かいました。しかし、あいにく彼女は留守でした。「妻はただ、週末、あなたと一緒に法を勉強したいだけだ」と家にいた彼女の主人が教えてくれました。けれども、私とその同修の家は結構離れているため、私よりも彼女の家の近くで開かれている集団学法に参加した方が良いと思いました。

 しかしながら、その学法チームと連絡を取った時、相手に断られてしまいました。その時、私は何も言いませんでしたが、内心、随分と利己的なチームだなと思いました。それでも、自分は修煉者なので、トラブルに遭った時はまず内に向けて自分を探さなければならず、師父も『洪吟三』の中でこのように説かれました。「修煉する人、自らの過ちを探し、各種の人心取り去ること多し、大なる関小なる関、落さんと想ふべからず、正しきは彼、過ちは私、何を争ふものか」[1] 内に向けて探したところ、自分は無鉄砲な所があり、相手の立場に立って考えていないことがあることに気づきました。連絡を取った同修Bさんは警察官から嫌がらせを受けたことがあり、恐怖心も強く、また、Aさんの事をよく知らないため、安全面を考えると、むやみに彼女を受け入れることができなかったのでしょう。この点を理解した途端に、Bさんへの怨みは無くなりました。

 この問題において、同修への怨恨心は消えましたが、怨恨という物質はまだ自らの空間場の中に存在しており、根本的な要因もまだ取り除いていないため、他のことに遭うと、怨恨心も再び現れるのです。

 ある日、宅配便で同修から真相資料を受け取りました。開けてみると、それはまだページが切り離されていない小冊子でした。カッターナイフで2冊ほど切ってみましたが、どうしてもきれいに切り揃えることができず、見た目があまり良くないので、常人に渡すことができませんでした。裁断の道具を使いきれいに切り揃えてもらおうと思い、資料拠点の同修に頼みました。しかし、何度も後回しされた上、結局、今ではもう小冊子はなくなり、皆、大きめの冊子を使っているため、小冊子を切り離す裁断用の機械もすでに処分したと言われました。しかし、諦めきれない私は、他の人に聞いてみてはくれないかと、何度も同修に頼みました。その同修も私のしつこさに負けて、漸く他の人に聞いてみると約束してくれました。けれど翌週、資料を受け取りに行くと、その同修は裁断用の機械のことには全く触れずに、小冊子の切り離しの件を直接断ってきたのです。そして、各資料拠点で扱っている資料の数が決まっているので、他の地域の同修に勝手にあげてはいけない、もらったものを返しなさいとも言われました。資料をくれた同修は年配の方で、おそらく彼女もこのことを知らなかったのでしょう。私がもらったからには、私が解決しなければいけないし、今回の事は各資料拠点の資料が他の地域に回っている問題でもないと思い、自分で資料拠点の責任者と連絡を取ることにしました。同修が手伝ってくれないなら、他の方法を探すしかありません。大法の真相資料を無駄にしてはいけないのです。

 しかし、頭の中でそう思っていても、心の中では、大法の資源を大切にしないのは良くない、大法弟子は一つの家族なのに、あなたのものや私のものなどと区別してはいけません。あれもこれも、法を実証することに関係しているし、私も責任を取ろうとしているのに、どうして、自分が間違っているかのような言われようをされなければならないのだろうか。帰る道すがら、次から次へと資料拠点の同修への怨恨が溢れてきて、もう、二度と彼女に会いたくないとさえ思ってしまいました。次の瞬間、このように思った自分に驚きました。彼女に会いたくないこの念こそ、彼女と自分の間に隔たりを作っているのではないでしょうか。まさに旧勢力の思い通りではないでしょうか。今回の事はまさに自分の怨恨心が原因で起こったのではないでしょうか。旧勢力は今回の事を利用して私の怨恨心をより拡大させ、大法弟子との間に隔たりを作ることが目的なのです。危うく旧勢力が仕掛けた罠に嵌(はま)るところでした。法を正す時期がすでに最後に来ているので、早くこの怨恨心を徹底的に取り除かなければなりません。

 思い返せば、物事が自分の思い通りに行かない時、よく怨恨心が生じます。生じた怨恨心は一瞬ですが、自分は修煉者ですので、常にそれを排除しています。しかし、次回また現れるのです。ずっと自分に付きまとい、なかなか取り除くことができませんでした。

 さらに深く掘り下げてみたところ、自分のことが後回しにされたり、生活に不便が生じたりなどの時に怨恨心が生まれることに気づきました。まさに「私(し)」ではないでしょうか。この「私」は怨恨だけでなく、不公平や、悔しい思い、嫉妬する心、他人のことが気に入らないなどの心理の根源でもあります。私たちは師父を助け、法を実証し、そして、衆生を救う大法弟子です。「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」[2]と師父は説かれました。

 これまで20年余りの修煉の中で、たくさんの執着心を取り除きましたが、まだ深く隠されている人心があり、時々現れてきます。全て「私」が作用しているので、早く徹底的にこれを取り除かなければなりません。法を正すこの最後の時期において、時間が限られている修煉の中で、法を用いて自らの思想や念を正さなければいけません。「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[3]と師父は説かれました。大法の無限の力はいかなる私利私欲や雑念をも排除することができますので、慈悲な師父の済度に応えるように、きちんと「三つこのと」を行い、最後の道をしっかりと歩んでいきましょう!!

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/8/364799.html)
 
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