文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年12月20日】一回一回生死を放下し、観念を変えることにより、迫害を恐れる心が以前よりずいぶん薄れ、人を救う力も以前より大きくなりました。しかし、まだ完全に放下できていないため、やはり時々恐れる心に妨害されるので、そのたび正念を発して取り除かなければなりませんでした。
始めこれは正常だと思って、気にしていませんでしたが、徐々にこの恐れる心に妨害されるのは、つまり自分の空間場内に、このような物質が存在しているからであると悟りました。
内に向けて探し、いろいろな人心を見つけました。肉親への情、安逸を求める心、穏やかに修煉したい心、衆生を救うことを妨害されたくない心などなどです。さらに、深く隠れていた人心も見つけました。例えば、衆生を救うことが近い将来、いつ終わるのかが分かったとしたら、私は必ずすべてを放下して、全力でやるべきことを行うはずです。しかし、衆生を救う期間が延長され、未来のいつに終わるのか分からない場合、以前の私でしたら、できるだけ危険性が少なく、人をたくさん救える方法を選んで行います。何故かと言うと、迫害されてしまったら、人を救う機会を失うからです。
しかし、この考えの中に二つの間違いがあることに気づきました。一つは、人間のずる賢さを使って、迫害されないように計算し、最大限に自分が行っていることを通して、人をたくさん救い、威徳を築こうとしていました。基点は自分のためのものなので、無条件で師父が法を正すことを手伝い、慈悲に人を救うものではありませんでした。条件を設けているのが一つの間違いでした。私がたびたび迫害された主な原因もここにありました。
二つ目は、自分で自分の法を実証する道を按配しようとしたことです。大法弟子のすべては、師父が按配されるのです。念が動じず、清淨な心で、師父の要求通りに行えばこそ、無条件で師父の欲することを円容しているのです。強い私心と求める心を抱いて、威徳を築く機会を失うのを恐れながら、いくら人を救うことを行なっても、無意識の中にすでに大法を利用して、自分の目的を達成しようとする罪を犯しているのです。内に向けて探さなければ、このような心をずっと抱いたまま、修煉の最後に到達すれば、私は真に修煉していなかったことになるのです。
師父が『轉法輪』の中で「いろいろな目的を追求しながら功を学び、大法を学ぼうとしても、何も身につけることはできません」と説かれました。私は法を学んでも、法を得られない原因は、つまりここにあると思いました。
今の私には漸く、よく修煉できている同修が、なぜいつも心穏やかな状態でいるのかを、少し分かったような気がしました。つまり念が動じることは、往々にして私(し)のためだったからです。自分のために何かをしようとか、何かを得ようとしても、宇宙の生命であれば、すべて師父の要求に従わなければなりません。私は心の底から、すべてを師父に任せ、正々堂々と人々を救おうと思いました。迫害されるとかの事も考えません。心配すらしません。実は恐れる心がなければ、迫害もなくなるのです。
以上、個人の悟りです。