闘争心と嫉妬心などの執着心を修めることについての悟り
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文/広東省の大法弟子

 【明慧日本2014年3月27日】私は中共の「闘争哲学」にひどく害されたため、闘争心、嫉妬心、自分を実証する心をとても強くもっていました。10数年の魔難のなか、私は法を師として、多くの執着心を取り除きました。当初同修に自分の間違いを指摘されて、ひどく怒り出した状態から、我慢して、反駁しなくなり、それから無条件に自分を探し、ひいては大声で怒鳴りつけられても、あまり心が動じないようになりました。今は良いと言われても、悪いと言われても、できるだけ心を動じさせないようにしています。

 以下は私がまとめた、いくつかの悟りです。 

 一、他人が私の間違いを指摘した時、時には自分の面子と自尊心が傷つけられたと感じる時もあります。しかし、師父の説かれた「自己に非(あらざ)るを切り捨て それらすべて是迷中の痴」[1]に照らしてみると、それらは私ではなく、それを捨ててこそ、私は更に面子があり、更に自尊心があるようになるのではないでしょうか。

 二、他人が私の欠点、間違いを指摘してくれた時、不機嫌になるのは、人の口を塞ごうとするからで、紙で火を包むことに等しいのです。その人が私の前で言わなかったとしても、私のいないところで話すことをやめさせられるでしょうか。彼が言わなかったとしても、ほかの人が言うのではないでしょうか。自分の不足を覆い隠すことは自分で自分を欺くことであり、真を貫いていないことになります。

 三、時には指摘されたことが事実でなく、或はその人の見方が間違っていて、無実の罪を着せられて、つらい思いをさせられると、私はやはり我慢できず怒ります。師父は、「もちろん、善意をもって説明し、事実をはっきりさせるのは構いませんが、しかし、あまりこだわりすぎてもいけません」と説かれました。私は自分にこう要求しました。本当に無実の罪を着せられたとしても、それは借りを返していることとみなし、他人の意見を、自分を厳しく要求することに対する励ましとみなせば、更によくこなすことができます。

 四、常に自分をチェックします。他人からの意見を謙虚に受け入れたか? 大きな心で受け入れられたか? 真・善・忍を基準としたか? 例えば、みなの前で責められた時、もし何も言わなければ自分がめめしく、虐められやすい人であり、他人に見下されると思ってしまうかどうか。実際、それは最大の善意を持った忍であり、強大なエネルギーであり、すべての人を感動させることができます。人に見下されないばかりか、却ってみなに敬服されるのです。

 執着心については、一旦発見したら、その真の姿をはっきりと見分けてこそ、それを取り除くことができます。三つのことを行うなかで、トラブルのなかで、執着心を見つけ出すことは一番易しく、そしてそれを取り除くことができます。

 恐れる心に対する悟り

 私は5回強制連行されたことがあります。電話を盗聴されていて、電話のベルがなると私は怖がっていました。ドアがノックされる音を聞いても怖がっていました。「恐れる」とはなんでしょうか。法を多く学ぶに従い、私は「恐れる」とは、法理がはっきりせず、中共による迫害を人間に対する人間の迫害とみなしたからだと悟りました。ですから、人間の方法をもって、迫害に反対しても、何の役にも立ちません。

 迫害は旧勢力の按配によるものであり、旧勢力は大法弟子のすべての考えを按配しました。私たちの考えがそれに符合すると、迫害されます。ですから、私たちは自分の考えからそれを取り除くだけでなく、自分のすべての考えを是正し、また行動において旧勢力の按配を否定しないといけません。本当に迫害に反対し、表に出て師父に要求された三つのことをしっかり行い、たえず迫害に反対する中で恐れる心を取り除くべきです。

 私はまた「恐れる」とは心が正しくなく、人間世界の安逸な生活に未練があり、生死を放下していないからだと悟りました。大法弟子として、人間の生命の意義は、ほかでもなく返本帰真して、師父について家に帰ることです。

 「恐れる」とは自分の役割を正しく理解できていない現れです。大法弟子は法を正す師に手伝い、衆生を救い済度する主役であり、最も正しい姿をもって、最も正しいことをこなしています。常人さえ、一生やましいことをしなければ、夜中にドアをノックされても怖がらない、と言っています。善悪には報いがあります。私は衆生を救い済度する善なることをしているのに、なぜ、邪党と悪人を恐れるのでしょうか? それは、大法弟子に能力があるということを信じていないからです。大法弟子は師父と正神に保護されている以外に、師父も私たちにすべての能力を与えてくださいました。「あなたが正念を発すると、邪悪が千軍万馬であっても、全部土となり、すべて消滅され、何者でもありません」[3]

 実際このすべては師父を信じ、大法を信じているかどうかの問題です。学法を強化し、発正念を強化し、絶えず内に向けて探し、自分をしっかり修め、正念を持って、正しい行いをすれば、恐れる心は少なくなり、三つのこともしっかり行うことができ、大法を実証することができ、かえって更に師父を信じ、大法を信じることができるようになります。

 情と色欲を修める体験

 私は男女関係で道に外れたことはありませんが、色欲の心がとても大きかったのです。この心を修めるために、それに関連することが発生しました。

 若くて、きれいな女子大生が私たちの学法グループにやってきました。私は美しい女性の同修が学法に加わったので、学法グループに「光彩」が加わったと思いました。たまに彼女は私の発言がとてもすばらしい、私が明慧ネットに投稿した文章はよく書かれていると褒めてくれました。私はそれを聞き、自惚れはしませんでしたが、心地よく感じました。彼女に何かトラブルがあると、私は喜んで手伝ってあげました。時には彼女のために、発正念をしました。数時間、或は一晩中発正念をしたとこもあります。彼女はとても感動しました。三つのことを行う際に、うまく協調したこともありますが、そのなかにはとても重い情が含まれていました。

 私と彼女は異性同志なので、情があると、色欲がうまれ、トラブルも発生しました。一度、彼女は私の前で、もう一人の男性の同修に、彼女の出会った同修のなかで、その男性の同修の心性が一番高いと言いました。常に彼女に褒められていた私は数日間苦しかったのです。時には彼女がその男性の同修を見送るため、しばらく一緒に歩いていたとき、私はとても嫉妬しました。一度、彼女は私の発言は報告をしているようだと言いました。私は更に苦しくなりました。後になって、彼女はこの学法グループを離れました。私は名残り惜しさで、なかなかその状態から抜け出せませんでした。

 どうしてこうなったのでしょうか? 私は学法しながら、この問題について長い間、考えてみました。ひいては一日中座って、考え込んだこともあります。どのぐらい長く考えたか分かりませんが、私はやっと分かりました。情と色の問題での失と得でした。

 人はどうして、情と色を、これほど強く追求するのでしょうか? 情は旧宇宙が人間に按配した享楽であり、得ればうれしく、心地よくなり、だから失いたくなく、失えば苦しいのです。

 どうすれば、情と色欲の心を取り除くことができるでしょうか? 情と色が発生する原因、および情と色を追求することの危害について、内心から理解できてこそ、それを取り除くことができます。修煉者として、私は情と色欲を取り除く方面での師父の説法を何回も読みました。

 師父は「大法弟子よ、色欲は修煉者にとって最も乗り越えがたい関であると私は随分前に既に言いました。常人のこの情にひどく動かされています。これほどのことでさえ、自ら抜け出すことができません。当初旧勢力はこのような人が大陸の監獄に行ってはじめて改めることができるように按配しましたが、そうではありませんか? あれほど厳しい環境の下で改めるしかないでしょう。あまりに楽だからそうなったのではありませんか?」と説かれました。

 常人のすばらしい生活と安逸を追求することは、情と色欲の心が生じる前提条件です。同時に、情と色欲を追求する執着心は、修煉者にとって、その危害が特に大きく、修煉者にとって、乗り越えがたい関です。修煉者として、情と色に執着すると、軽い場合は刑務所に入れられ、重い場合は修煉できなくなります。ですから、私は欲求しない境地に至り、修煉者の高い境地に至るように、時々刻々自分を警戒し、自分をチェックしています。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「執を去る」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「二十年説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/3/17/288831.html)
 
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