中国伝統美徳物語 (孝行編) その十「蔡順が桑の実を拾う」
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 【明慧日本2019年7月13日】前漢(紀元前206年 - 8年)末期、河南には蔡順(さい じゅん・生没年不詳)と言う人がいました。彼は幼い頃から父親を亡くし、母親と互いに寄り添って生きてきました。王莽(おうもう)の戦禍を避けるため、蔡順は母親と一緒に椹涧(現在の河南省 許昌市の西部に位置する)に避難して来ましたが、思いがけないことに連年の戦禍により、ここも土地が荒れ果てて百姓たちが流浪して、身の置きどころがなくなっていました。そのため2人の生活は当然のことながら、とても苦しいものでした。生きて行くために蔡順は母親をボロ家に残し、自分1人で毎日食を乞い求めに出かけました。少しでも良い食べ物をもらえれば、彼はそれを家に持ち帰って母に食べさせ、自身は野草や残りの粥で腹の足しにしていました。

 その後、樊崇(はんすう)が赤眉(せきび)軍を率いて許昌まで攻めて来ました。当時、百姓は赤眉軍に略奪されるのを恐れて、皆逃げてしまいました。もともと物乞いで生計を立てていた蔡順親子の生活はさらに厳しいものになり、いつも遠くまで乞食をしに行かなければ、食べものをもらえませんでした。日が沈んでも、まだ帰って来ない息子の事を気にかけていた母親は、いつも村の入り口に座って息子の帰りを今か今かと待っていました。そのため、椹涧郷の菜園村の西の丘には、未だに「子待ち寺」の遺跡が残っているのです。

 また、食糧が出回らなくなる季節が巡ってきました。ある日、蔡順は非常に飢え苦しんでいましたが、午後になっても食べ物をもらえませんでした。突然トボトボと歩いていた彼は、一面の桑林を発見しました。地べたにたくさんの桑の実が落ちているのを見て、宝物を手に入れたかのように急いで拾い、濃い紫色と青くて赤色の桑の実を分けてかごに入れ、嬉しそうに母の待つ家へ急ぎました。しかし、帰る途中に赤眉軍に出遭ってしまいました。兵士達は彼のかごに入っている桑の実が色分けしてあるのを見て、とても不思議に思いその理由を尋ねるました。蔡順は「濃い紫色の果実は熟していて甘いから、家に持ち帰ったら母に食べさせます。青いものはまだ酸っぱいので、自分用です。母は年を取っていて目が悪く、分けて渡せば、母が食べやすいからです」と言いました。

 良い人はいつも報われるものです。赤眉軍は蔡順の優しさと誠実さに同情して、優しい彼を傷つけませんでした。しかも奪って来た米や粟、牛や羊などを彼に分け与えようとしました。しかし、蔡順は事の是非をはっきりと分かる人で、これらの不義の富を少しも受け取りませんでした。熊耳(ゆうじ)山(河南省の洛陽の西南に位置する)に駐屯していた赤眉軍の兵士達は、蔡順がこれほどまでに母親に孝行しているのを見て、思わず故郷の家族を懐かしく思い、皆は鎧兜( よろいかぶと )を捨てて帰郷し、両親の元で孝道を尽くしたいと思うようになりました。そこで、彼らは駐屯地の傍の小さな河辺で眉に塗った赤い色を洗い落とし、故郷に帰ることにしました。そのため、地元住民はこの川のことを「眉洗い河」と名付けました。

 盗賊が平定された後は、生活は安定しましたが、しかし、蔡順の年取った母親は不幸にも亡くなりました。そして、母親の葬儀がまだ行なわれていないうちに、近所の家で火災が発生しました。火が蔡順の家の近くまで勢いよく燃え盛って来たため、蔡順は急遽(きゅうきょ)母親の棺を抱きかかえて、悲しくて大声で泣き叫びました。すると、猛火はなんと彼の家を避けて通り過ぎて行きました。彼の孝行は天地を大いに感動させたのです!

 母親は生前雷を恐れていたため、雨が降り、雷が鳴る度に、蔡順はお墓へ走り、墓碑を抱いて「息子がここにいるから、母上は恐れないでください」と泣きながら訴えました。

 蔡順は母親の生前に孝行しただけではなく、彼は、亡くなった両親に対しても、生前と同じように孝行し続けました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/6/20/378379.html)
 
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