文/ニューヨークの大法弟子
【明慧日本2025年4月5日】私は1997年にニューヨークで法を得た弟子です。これまでさまざまなプロジェクトに参加し、そして一部のプロジェクトの担当の仕事にも携わってきました。
最近起こった一連の出来事を通じて、私たち修煉者全員が一つの問題をよく考えるべきだと思います。それは、「私たちは一体何のためにこの世に来たのか?」ということです。
多くの人が「師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度するためだ!」と言うでしょう。しかし、よく考えてみると、法を正すのは師父であり、衆生を救い済度するのも師父であり、私たち自身も師父に救われているのです。では、私たちは何をしに来たのでしょうか?
私たちは修煉をするために来たのです!
私たちは幸運にも法を正す時期の大法弟子となりましたが、私たちの修煉の道は過去の時代の修煉者とは異なります。自分自身をしっかり修めると同時に、真相を伝え、師に手伝って人を救う使命も担っています。これは私たちの修煉の一部であり、修煉と深く結びついています。
長年にわたり、よりよく真相を伝えるために、さまざまなプロジェクトが次々と立ち上げられてきました。しかし、それに伴い、ある現象が生じています。それは、多くの学習者がプロジェクトへの参加を修煉そのものと見なし、さらには修煉の代わりにしてしまっていることです。中には、どのプロジェクトに関わるかを修煉の良し悪しの基準としている人もいます。例えば、自分が関わっているプロジェクトを他のプロジェクトより重要だと考え、それに参加することで他の人よりもよく修煉していると思い込む人がいます。また、「プロジェクトの中にいることが修煉であり、そこを離れれば修煉から離れてしまう」と考えてしまう人もいます。
一部のプロジェクト責任者は業務に専念するあまり、学習者に良い修煉環境を提供することを見落としてしまっています。もちろん、常人社会に適応し、プロジェクトをしっかり運営することは問題ありませんし、それがより良い影響を生むのは確かです。しかし、私たちのプロジェクトは常人の会社とは異なり、そこで働く人のほとんど、あるいは全員が学習者です。彼らは修煉をするためにここにいるのです!そのため、プロジェクトの責任者は彼らに良い修煉環境を提供する責任があります。そして、物事に直面したときに修煉の観点から考えるよう導き、気づかせるべきです。常人の基準を満たしているかだけではなく、修煉者の基準に合っているか、法に合っているかを考えなければなりません。ただひたすら業務をこなし、目標を達成することだけを考え、修煉の観点を欠いてしまうと問題が起こります。たとえば、「どうやってより多くのお金を稼ぐか」ばかりを考えれば、お金の問題が生じます。「どうやってより多くのアクセス量を増やすか」を考えれば、アクセス量の問題が生じます。
私たちのプロジェクトには多くのエリートが集まっています。彼らは若く、語学が堪能で、中国本土から出てきたばかりの学習者よりも西洋文化をよく理解しています。常人の企業で働けば、高い報酬を得ることができます。しかし、彼らがプロジェクトに身を投じるのは、修煉の心があるからであり、使命感と責任感があるからです。もしプロジェクト内に良い修煉環境がなければ、彼らは去ってしまうでしょう。これはプロジェクトにおける人材流出の主な原因の一つです。そして長い時間が経つにつれ、その環境は彼らの修煉の状態にも影響を及ぼすことになります。
現在の法を広める活動においても、プロジェクトの学習者の参加が非常に限られています。その結果、別の問題が生じています。それは、中国本土から出てきたばかりの学習者が、西洋社会をよく理解せず、言葉も通じないまま、盲目的で攻撃的に資料を配ったりプロジェクトを宣伝したりしていることです。これにより、常人の反感を買い、時には私たちが今後その地域の活動に参加することすら拒否されることもあります。これは学習者個人の修煉の問題であると同時に、協調人やプロジェクト責任者の責任でもあります。
私は協調人の仕事を始めたばかりの頃、すべての人が修煉者である以上、当然のことながらルールを守り、自覚を持って行動すべきだと考えていました。そのため、あまりよくできていない学習者に対しては厳しく接していました。しかし、修煉を通じて、自分が他人の立場に立って物事を考え、より思いやりを持って接することができていなかったことに気づきました。
少しずつ、私は自分の担当者の道が、心を広げる道であることに気づきました。10人をうまく協調したければ、10人を包容する心が必要であり、100人を協調したければ、100人を包容する心が必要です。もっと多くの人を協調するには、自分の心の容量をさらに広げる必要があります。ましてや、彼らは皆、修煉の途中にいる人たちなのです!それぞれの人の修煉の道は違い、状態も異なり、悟っている法理も違います。常人の中でバランスを取らなければならないことも人それぞれです。私は他人をよりよく理解しようと努力し、彼らの困難を聞き、どうすれば彼らが大法の中で最大限の役割を果たせるかを考えるようになりました。その過程で、自分の心が広がっていくのを感じています。これは法が私を変えているのです!
修めることには終わりがありません。担当すべきことが増えるにつれ、責任感とともに目に見えないプレッシャーが私を後押しし、私は「これは師父が私を前へと押してくださっているのだ」と感じています。機縁を大切にし、感謝の気持ちが私を励ましています。同時に、以前よりも心が落ち着いています。なぜなら、私は大法の威力を堅く信じており、大法弟子の偉大さを身をもって感じているからです。彼らに奉仕する機会を得られることは、私にとって非常に光栄なことです。
プロジェクトの責任者は、さらに大きな責任を負っています。企業としての運営をうまく行うだけでなく、良い修煉環境を作る必要があります。責任者に求められる基準はより高いものになります。私は心から願っています。責任者の皆さんが、プロジェクト内の修煉者をよく導き、物事に直面した際には修煉の観点から考え、修煉者の基準で自分自身と他人を律し、地元の学法や活動に積極的に参加するよう皆を励まし、自分のいる地域を真にひとつの全体へと導いていってほしいと。
相生相剋の理がまだずれていなかったとき、人間界では「正が邪に勝つ」のが当然でした。しかし、末法の最後のこの人間世界では、悪が支配しています。私たちはこのような環境の中で修煉しているのですから、どうして順風満帆にいくことがあるでしょうか? もしすべてが順調なら、どうやって向上するのでしょうか? もし世の中の人が皆「大法は素晴らしい」と言ったら、私たちの悟りはどこにあるのでしょうか? もし誰もわざと妨害してこなかったり、邪悪な弾圧がなければ、「真・善・忍」の中で真に修めている弟子との違いや輝きはどこに現れるのでしょうか?
心を静めて法を学び、修煉の道をしっかりと歩み、時の流れの中で機会を大切にしましょう! 私たちは最も幸運な存在です。なぜなら、私たちは大法弟子だからです。なぜなら、法輪大法は素晴らしいからです!
[修煉者同士の理性的な交流は、通常、その時点での個人の修煉状態に基づく理解であり、善意による交流であり、共に向上することを目的としています。]