【インドネシア明慧】インドネシア明慧を協調する中で自分を修める
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2022年9月29日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは。

 今年は4週間以内に現地で明慧法会を開催しなければならず、まず思ったのは、何から始めていいかわからないけれども、参加したい、貢献したい、ということでした。それは自分の中の積極的な部分でもあるのですが、同時に「準備期間がこんなに短いと知ったら、グループのメンバーはどう思うだろうか」という迷いや愚痴といった自分の消極的でネガティブな思考も出てくるのを私は感じました。

 またいろいろと考えました。しかし、ある一つの念から師父の次のお言葉「家に帰って字を書けば、上手か下手かは別として、それに功が入っています!」[1]が突然頭の中に浮かび「心を静めて座り今すぐ書き始めること、最終的な結果に執着することなく、自分ができる限りのことをすること、できるだけ円融すること、本部の協調人の要求を黙々と完璧にすること、誠意をもって交流文章を書くこと」と自分に言い聞かせました。以下の交流は、明慧プロジェクトにおける私の修煉過程です。

 明慧プロジェクトに対する認識の向上

 私は2000年に修煉を始め、2003年(または2004年)から翻訳者として明慧プロジェクトに参加しました。明慧に加入した当初は、このプロジェクトの神聖な使命についてよく知りませんでしたが、行っていてとても楽しく、退屈は全く感じませんでしたし、なぜ毎日プロジェクトの仕事をやっているのかを考えることもありませんでした。ただ、明慧の文章を翻訳することで、自分の心が大きく浄化され、心の中で平和を感じるようになり、さらにその過程で、内に向けて探すことを学び始めました。

 時間が経つにつれて、明慧プロジェクトは真相を伝え、迫害を停止し、さらに多くの衆生を救うためのものだと理解するようになりました。また、明慧ネットは中国と中国以外の修煉者間の主要なプラットフォームでもあり、明慧ネット上の文章を読むことで「比して学び、比して修す」[2]し、同修が関に直面しても互いに支えあい励ましあい、関を克服してより精進することができるのだと思いました。

 師父は「特に大法弟子が最も困難な状況下で、修煉者の声を聞きたい時、(師父が心を打たれた表情を見せられた)明慧ネットの存在は、皆さん考えてみてください、これはなんと素晴らしいことでしょう。必ず大事にすべきです!」[3]と説かれました。

 私の仕事が多いか少ないか、仕事の大小にかかわらず、すべて大法弟子の修煉の機会であり、師父の洪大な恩恵であり、このプロジェクトに携われたことがいかに名誉なことか、ということを私はすぐに悟りました。

 達成すべき目標がとても大きく崇高であるので、明慧プロジェクトを通じて衆生を救い済度するために、自分をしっかり修めることの重要性が、法を学ぶことでますます理解できるようになりました。

 協調の責任を果たしながら同時に心性を向上させる

 明慧プロジェクトに携わる中で、徐々により責任ある仕事を任されるようになりました。翻訳者から編集者になり、2010年からは当地エリアと国際間の窓口になり、当時辞任した協調人の後任として当地の協調人を務めました。

 一見すると、他の同修がやりたがらなかったり、リソースが足りなかったり、同じグループの修煉者からのプレッシャーがあったりと、自然に協調人としての責任を担うようになった経緯がありました。より大きな責任を負わされた場合、その過程は必ずしも円滑に進むとは限らず、不承不承だったり、拒絶したり、他の人に責任を押し付けてしまったりすることもしばしばありました。しばらくすると、投げ出していた責任感が私によみがえってきました。それは、自分が他の同修より能力が高いという意味ではなく、自分自身の史前の誓約のためだと私は悟るまでになりました!

 修煉する前の私たちの本質はあまりにも質が低く、どんなに長年修煉を続けても、私の自我はまだ支配的であり、師父は私たちを前に導こうとなさいますが、私たちは同じ場所に安逸に留まろうとするのでした。

 つまり、この自分勝手な心は、私の協調の責任にとって大きな障害であり、私が取り除かなければならない人心でした。この自分勝手な心が、私が安逸を求め続ける根源でした。しばらく頑張っていると、衆生を救い済度し、自分の心性を高めるための時間と機縁がほとんど残されていないことを忘れ、自己満足の心が現れ、苦労したくない心がよく出現しました。

 師父は「皆さんがこれから先の修煉において、自分を煉功者としてあつかい、本当に修煉し続けてほしいということです。新しい学習者も古い学習者も、大法の中で修煉し、みんな功成って圓満成就できるように希望します! 皆さんは帰ってからも時間を無駄にせず、着実に修煉するよう切に希望します」[1]と説かれました。

 師父のこの法は、私が常人社会で怠ける誘惑に陥らないよう、自己満足に陥らないよう、気づかせてくださいました。「真・善・忍」に同化し、師父について行き本当の家に帰る、これこそが師父の願いであり、私たちが初めて世に降り立った時の願いでもあるのではないでしょうか?

 法会の現場での私たちはみな、同じプロジェクトに参加しており、それは明慧でした。私たちは聖なる縁で結ばれており、、師父から託された使命を果たしているのでした。このグループプロジェクトは、そのプロジェクトに参加している大法粒子の一人一人が自分の役割を果たし、怠ることがなければ、はじめて成功させることができました。上記の師父のお言葉を聞いて、私はまだまだ師父のご要望を十分に果たせていないこと、自分の人心にしがみついていることを思い知らされました。

 自分の自己満足の心に気づき、それを捨て始めてから、心の容量が自動的に広がり、心の容量が広がったことが何重層もの自己満足の心を放下することができたことに直結していることに私は気づきました。心の容量は、より大きな責任を負うこと、寛容さの度合い、グループ内外からの批判、助言、異論に、いかに気持ちをさらに広げ、耳を傾けることができるのか、ということと極めて密接な関係がありました。

 実際、最近、現地のグループの作業の流れを改善したように、グループ内からだけではなく、グループ外のメンバーからの改善提案も多いことがわかりました。新たに採用した作業の流れにより、1日に仕上げる文章の編数が大幅に増えました。1人の協調人として「必要なのは、メンバー同士が風通しをよくし、正直に、互いに励まし合う雰囲気を作り、良いアドバイスを受け入れることだ」ということに私は気づきました。しばしば、時折、負けず嫌いの心が、法を学ぶ中で、あるいは同修の口を通して出てきたのですが、その負けず嫌いの心は師父が望まれているものではなく、負けず嫌いの心は非常に強い自我の現れであり、協調人として、チームのメンバーが修煉して自分の道を進む機会を提供しなければならず、私の理解では、協調とは自分の理解や個人の希望を押しつけることではない、と私は改めて思い知らされました。チーム内の同修は、明慧が果たす重要な役割を認識するようになったため、より熱心に仕事に敬意を払うようになりました。

 数年間の努力の結果、全員が力を合わせて無私で取り組めば、必ず良いアイデアや良い限界の突破が生まれることに気づき、そして実感しました。

 ここ数年、師父の慈悲深い按排の下で、何人もの若い同修が現地のチームに加わり、翻訳チーム、ソーシャルメディア、編集など多くの責任を自発的に担って積極的な役割を発揮しました。以前から参加していた若い同修もいましたが、残念ながら長続きせず、いろいろな事情でプロジェクトを離れてしまいました。しかし、これは私の協調人としての不足でもあり、当時はプロジェクトを離れた若い同修の状況にあまり注意を払っていませんでした。

 明慧プロジェクトの活動について弟子から質問を受けた師父は「特に若い大法弟子の加入が望まれていますが、彼らはなかなかここに専念することができません。ですから、非常に難しいのです。修煉ですから、本当に分かっていれば、皆、我先にと参加します」[3]と回答されました。

 師父が望まれたことですから、加入し、さらに残ってくれた同修たちには感謝しかありませんし、プロジェクトを運営していく過程で、若い同修たちにはモチベーションや忍耐力という点で足りないところがあることもわかりました。知らず知らずのうちに「老い」という概念を意識していた私にとって、若い同修たちの存在は「もっと勉強しよう! 自分の専門能力を向上させよう!」という気持ちにさせてくれました。私も自分を正さなければなりませんでした。師父が法を正すお手伝いをし、衆生を救う中には「老い」という概念はありませんでした。

 しかも、明慧ラジオチームの修煉者のほとんどが他のプロジェクト出身で、明慧ラジオ本部の協調人から「自発的にこの取り組みを展開しましょう」と励まされました。その時、若い同修たちの参加が重要だと私も感じました。若い同修たちの参加という現象を見ると、もっと謙虚に、もっと広い心で、自分を重視してはいけないと思いました。師父は、若い同修のような優秀なメンバーにさらなる役割を担わせるように手配していらっしゃいました。協調人の役割の一つは、私たちチームの学法と交流を分かち合うための安定した促進であると私は理解しました。学法と交流を分かち合えるこの共通の環境は、異なる街に散らばり、ほとんど顔を合わせない私たちにとって、チーム、そしてメンバー間で修煉体験を共有し、互いに協調し合う環境でもあるので重要なことであり、協調人として、チームメンバーや、チームメンバーの修煉状況、直面している問題点などをより深く理解する良い機会となりました。

 私は「協力的でない、あるいは十分な働きをしていないと思われるメンバーに対して、私は慈悲の心に欠けており、辞めてもらおうとさえ思っていた」ということに気づきました。どうであろうと、協力的でない、あるいは十分な働きをしていないと思われるメンバーがプロジェクトに関わりたいと思い、ある程度関わりを維持できるのであれば、私はもっと寛容に理解し、協力的でない、あるいは十分な働きをしていないと思われるメンバーにとってより適した別の仕事をアレンジして、協力的でない、あるいは十分な働きをしていないと思われるメンバー自身の役割を果たせるようにするべきだと、あるチームメンバーから注意されたのを覚えていました。内に向けて自分を探すと、他人に批判的で傲慢な心を持っていることがわかりました。

 師父は私が「心には慈悲を生み、顔は祥和の意を帯びる」[4]という時に励ましてくださり、突然、この口訣の内容こそが私の足りないところなのではと思いました。少し前のことですが、地元の同修と第五式の功法を煉功していた時、師父の口訣を念じながら座禅していると、熱い流れが私を包み込むのを感じました。それは師父が励ましてくださっているのであり、師父の弟子に対する慈悲深いエネルギーであり、人心があることによって隠されていたのでした。私が十分な働きをしていないと思ったメンバーは、実はプロジェクトに貢献していたのですが、なかなか中核になることができていないだけでした。しかし、中核になることができていないということが他のプロジェクトや他の方面で修煉がよくできていないということではありませんでした。大法の粒子はみな、それぞれ異なる役割を担っていました

 結び。大法プロジェクトの協調人として、しっかりと法を学び、矛盾やマイナス思考が出てきた時には、自分を修め、心性を向上させることを忘れず、協調人の役割を担えるようにしなければならないということを、私は実感しました。メンバーの努力と献身がプロジェクトの成功の鍵であり、法がこの世を正す時の過渡期の中で自分を緩めることのないよう、自分への戒めと励みとなりました。

 次元が限られているため、上記の内容が法に符合していない場合は、遠慮なく訂正をお願いいたします。

 修煉の道で、加護してくださり指導してくださった師父に感謝申し上げ、全体に協力し連携してくれた同修の皆さんに感謝いたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十五』「二〇一八年ワシントンDCでの説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『大圓満法』「二、動作の図解」

 (2022年明慧多言語部門法会の発表文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/9/28/450119.html)
 
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