海外の佛学会に注意を喚起する
■ 印刷版
 

文/海外の大法弟子

 【明慧日本2025年4月4日】1999年に法を正す修煉が始まってから、すでに27年の歳月が経ちました。この間、真相を伝えるプロジェクトの発展や、中国本土から海外に出てきた学習者の増加に伴い、海外の修煉環境や法を実証する環境は大きく変化しました。

 例えば、多くのプロジェクトでは心性の向上や法に対する理解を重視せず、物事に直面した際に常人の観念や思考・行動が顕著に表れ、支配的になっています。また、海外の佛学会が本来の正の役割を果たせず、消極的であったり、単なる情報伝達の役割にとどまったり、プロジェクトの責任者のように振る舞ったりする(佛学会としてではなく、プロジェクトを中心に活動するようになっている)状況が見受けられます。こうした状況が長く続くと、皆がそれに慣れてしまい、プロジェクト間の関係も本来の協力関係や全体の中でそれぞれの役割を果たす関係から、人材の奪い合いや「どのプロジェクトがより重要か」といった競争意識が生じ、意思疎通が不足するようになります。さらに、中国共産党の迫害が続く中で、修煉者の集団には本来現れるべきでない人や事柄が入り込み、世俗の生活に忙殺される者、心が正しくない者、修煉しない者、偽って修煉している者、背景に問題がある者が活動の場を得て、影響力を持つようになっています。これにより、海外の法を実証する環境やその効果にも損害を与えています。この状況を変えるには、各同修が自らを見つめ、内に向かって修煉を徹底することが不可欠です。

 海外の古い学習者なら皆知っていることですが、海外の各佛学会の責任者は、その地域の学習者の修煉環境に責任を負っています。また、佛学会の責任者として、大法はすべての修煉者に要求を課しており、各修煉者自身も法において自らを律するべきであることは、誰もが理解しています。しかし、大法は佛学会の責任者が「修煉の手本」であることを求めているわけではありません。責任者もまた修煉者の一員であり、間違いを犯すこともあります。ただ、特定の使命と責任を担っているため、他の修煉者と同じように「法を師とし」、誤りを正しながら成熟し、皆とともに法の中で修煉し、向上していくことが求められています。したがって、佛学会の責任者が自己への執着を持つことも、責任を放棄することも、いずれも法に則っていない行為です。また、他人から理不尽な非難や否定を受けることも、修煉の過程で遭遇する試練であり、心性向上の機会としてとらえ、慈悲の心を持ち、衆生を思いやることで、真に乗り越え、より良い方向へ進むことができます。実際、常人社会においても、何か正しいことを成し遂げようとする際には、こうした試練や困難を経験するものです。ましてや、大法弟子としての使命を担い、修煉環境に正の影響を与える役割を持つ者であればなおさら、この試練を乗り越えることが求められます。

 1999年に中共の迫害が始まった後、中国本土から多くの学習者や特殊な背景を持つ人物が海外へ出ました。そして、各地で中国本土出身の学習者の数が、もともとの海外学習者の数をすぐに上回るようになりました。今日に至るまで、皆が目にしてきたように、迫害後に中国本土を離れた学習者の中には、ごく少数ながら海外での使命を持つ者もいますが、大多数は迫害のある環境を離れ、海外で安楽で幸福な生活を送りたいと考えている人たちです。その中には、かつて厳しい迫害を受け、中共に「三書」や「五書」を書かされ、迫害に協力したり、さらには「ユダ」として他の学習者の転向を手助けした者もいます。人身の自由を取り戻した後に厳正声明を発表した者もいれば、体面を気にして声明を発表しなかった者もいます。また、迫害を恐れるあまり、あるいは法理を明確に理解できていないために自ら常人の境遇に流れてしまい、「三書」や「五書」を書かなかったものの、子供の将来を考えて海外に出た人もいます。厳正声明を発表した人は、新しい学習者として扱われるべきですが、ずっと常人のように生活してきた人の多くは、修煉していないか、修煉の方法が分からないか、あるいは偽って修煉している者です。そのため、中国本土の修煉環境における様々な問題を、そのまま海外へ持ち込んでしまうのは避けられない状況となっています。

 さらに、迫害後に中国本土から海外へ移った学習者の中には、中共の党文化を海外にもたらした者も避けられず存在します。党文化は「中国のおじさん・おばさん」という気質を形成し、それが中国本土出身の学習者にも少なからず表れています。これらの不正常で、伝統や常識に反する思考や行動は、善とは言えず、自己中心的で傲慢であり、強引で闘争的な態度として現れます。これは中共の長年にわたる洗脳と支配によるものであり、中国人がいかに共産党の洗脳の毒害を受けてきたかの証でもあります。しかし、本土から持ち込まれたこのような強引さ、自己中心的な態度、争い、嫉妬心、他者への敬意の欠如、海外を見下す「我が国はすごいぞ」といった心態、他人を無責任に決めつける傾向、抜け道を探す習性、規則や法律を守らない行動などは、海外の正常な社会(共産主義の影響を強く受け、中共と長年取引をしている海外の人々を除く)では非常に目立ち、受け入れられにくいものとなっています。

 時間が経つにつれ、もともと海外にいた学習者の中にも、真に修煉を重視せず、ただ活動をするだけで修煉をしない者が現れ、周囲の本土出身者の党文化的な行動に影響を受けるようになりました。

 こうした中国本土出身の学習者については、すでに海外に出た以上、大法が多くの機会を与えており、たとえ中国本土で先史の誓約を果たすことを放棄してしまったとしても、ほとんど修煉してこなかったとしても、一度道を踏み外したことがあったとしても、プロジェクトの環境を通じて修煉を向上させ、法を実証する機会が与えられています。そして、真相を伝える活動の中で正の役割を果たすこともできるのです。これは、大法による慈悲の救い済度であり、旧勢力による隠れた破壊を否定するものでもあります。個人的な理解としては、大法が彼らの海外環境への悪影響を責めることなく、むしろ大きな機会を与えているのなら、海外の佛学会の責任者も、彼らの特殊な苦境を理解し(彼ら自身は自分の問題に気づかず、認めようともしないことが多い)、できる範囲で修煉を支援すべきでしょう。ただし、彼らの人心や党文化に引きずられたり、影響を受けたり、利用されたりすることは避けなければなりません。

 同時に、もともと海外にいた学習者も、理性的な傾向があるかもしれませんが、自身の問題を軽視してはなりません。自分では気づきにくい執着や観念があり、これについては師父が1999年以前の海外での講法で言及されています。

 修煉者として、使命が中国本土であれ海外であれ、人心を捨てず、現代の観念を捨てず、私心を捨てないならば、修煉を成し遂げることはできません。自分のあらゆる執着は、法を正す修煉の障害となるだけでなく、環境やプロジェクト、さらにはプロジェクト間において他人の修煉を妨げる要因にもなります。

 海外の佛学会の責任者として、さまざまな困難や環境の変化による複雑さ、プレッシャーにより、自らの責任を放棄してしまったならば、また、真の修煉によって向上できなかったならば、将来、真相が明らかになったとき、今日の言い訳を必ず後悔することになるでしょう。しかし、その時にはすでに終わっており、失われたものを取り戻すことはできません。それでは、あまりにも遅すぎるのです。

 真相を伝えるプロジェクトについてですが、これは学習者が長期にわたって迫害に反対し、真相を伝え、人々を救うために設立されたものです。つまり、自分自身を表現したり、自分を証明したりするためのものではなく、真相を伝え、人を救うという目的のために存在します。そのため、修煉を重視せず、私心や人間的な観念を取り除くことに注意を払わなければ、うまく進めることは難しいのです。

 いくつかの地域、例えばベトナム、ロシア、香港などは共産党の支配下にあります。真に修煉する弟子たちは、師父がこれらの学習者の修煉をどのように按排しているかを理解しています。しかし、一部のプロジェクトは、自らの発展や私利私欲のために、常人的な本位主義の考え方を指針としており、その結果、一時的に資金や人員の支援を得ることができたとしても、直接的または間接的に、これらの地域の修煉環境に問題を引き起こしています。例えば、ベトナムの学習者に対しては、師父が特別に経文を発表し、修煉における問題を正しました。しかし、ある海外プロジェクトの影響により、ベトナムの一部の学習者は依然として背後に頼れる存在があるため、行動や発言に遠慮がなく抑制を知らず、中国本土の一部の学習者と同様に、派手で目立つ活動に熱中し、善意の忠告を聞かず、独自の小さなグループ(勢力範囲や関係ネットワーク)を作り、それを誇示することで自らを証明しようとしています。また、香港では、佛学会の元責任者が不幸にも亡くなった後、中共による大法への迫害が始まった当初、香港の堕落した人物が別の独自のグループを作り、それに加わった人々が、新しい佛学会の責任者によって重用されました。その結果、現地で真に修煉し、真相を伝えることを堅持していた学習者たちに大きな妨害をもたらしました。北米やヨーロッパにおいても、一部のプロジェクト(西洋人学習者もいれば、1999年以降に中国本土から出てきた学習者も含まれる)が、人情や常人的な観念に囚われ、海外の大法弟子が長年にわたって真相を伝える活動の中で蓄積してきた貴重な資源を、実際には修煉していない者、修煉を理解していない者、さらには中国本土から来た正体不明の者たちに譲り渡してしまっています。こうした人々が、海外の大法弟子の代弁者や連絡窓口になれるのでしょうか? 彼らが海外の大法弟子の利益を代表できるのでしょうか? もし圧力や妨害に直面したとき、彼らは法の中で正しく自分自身を保つことができるのでしょうか?

 実際、過去の長年にわたり、ロシアの学習者の一部の行動や修煉における明らかな不足が、特定のプロジェクトに関わる人々の人心によって影響を受け、現地の修煉環境に重大な損失をもたらしてきました。このことについて、関係するプロジェクトは反省すべきであるだけでなく、他の共産党国家の学習者も同様に教訓を学び、法の中での向上と成熟を重視するべきです。しかし、問題の当事者たちはしばしば「道徳的に正しい立場」に立っていると思い込んでおり、誰も彼らが聞きたくないことを指摘したがりません。また、彼らにとって耳が痛いことを敢えて言う人がどれほどいるでしょうか? たとえ言ったとしても、当事者たちはどれだけ耳を傾けるでしょうか? もし、ある地域で「理性的でなく、ただ活動を強調するだけで、着実に修煉しない」という風潮が主流になれば、この空間の中共や、別の空間の旧勢力に付け入る隙を与えてしまい、自分自身やその国の修煉環境に損失をもたらすことになるのです。

 長年にわたる修煉を通じて私たちが目にしてきたのは、どの地域であれ、どのプロジェクトであれ、単に皆が書籍を読めば自動的に純粋な修煉環境が形成されるわけではないということです。修煉環境に現れるさまざまな問題や期待にそぐわない現象は、業力によるもの、修煉の過程によるもの、そして修煉が着実でないことによるものです。法に基づいて修煉せず、師父の按配を聞かないとき、私たちは旧勢力の按配に従ってしまうことになります。師父は私たちに「他を先にし、自分を後にする」という正覚を修めるよう求めています。私個人の理解では、これは私たちが新しい宇宙の基準に適合するためです。修煉の過程で十分な正念、忍耐、意志力を持つことができてこそ、混乱を取り除き、積極的かつ善意をもって世の人々に真相を伝え、努力と修煉の向上の中で正の役割を果たし、さらには天地を覆すような力を発揮することができるのです。

 大法弟子にとって、単に形式的に集団で正念を発するだけでは不十分です。大きなグループで学法をするという形式があるだけで、その中で特定の人が指定されて原稿を読み上げるというのも、師父が私たちに残した集団学法や交流の方法ではありません。人それぞれ出身も異なれば、成長環境も異なり、教育の背景や文化圏も異なります。人と人との円滑なコミュニケーションがどれほど難しいことでしょうか? さらに、党文化による深い洗脳を受けた後では、人と人との間に信頼や尊重を築くことはどれほど現実離れしていることでしょうか?

 ここで、一般社会における友好的な人々の間のコミュニケーションの例を挙げて、要点を説明したいと思います。

 ある母親がとても忙しかったため、自分の子供に「ママの代わりに猫に餌をあげてね」と言いました。子供は何も聞かずにリンゴを持ってきて、猫の餌皿に置きました。しかし、猫は食べることができず、母親の注意を引こうとしました。不思議に思った母親が確認すると、餌皿には手つかずのリンゴが置かれていました。そこで、母親は自分の言い方を改め、優しく「猫にキャットフードをあげてね」と伝えました。すると、今度は子供もすぐに正しく行い、猫に適切な餌を与えることができました。この日常生活の例は、人と人との間の思考の違いと、相手の立場に立って適切な言葉を選ぶことの重要性を反映しています。母親にとって、「猫に餌をあげる」ということは当然「キャットフードを与える」ことを意味していました。しかし、子供にとっては「食べ物を与える」ことが重要であり、それがリンゴであれ他の食品であれ問題ないと思ったのです。もし母親がリンゴを見てすぐに子供を叱りつけていたら、どうなっていたでしょうか? 母親は感情をぶつけることができ、叱る内容も正しいかもしれませんが、子供は必ずしも正しい「猫の餌やりの方法」を学べたとは限りません。互いに尊重し、思いやることはとても重要であり、これは人としての基本的な常識でもあります。

 細かいことから一歩一歩、着実に実践していきましょう。決して諦めず、自己に執着しないようにしましょう。自分が正しい方向に向かって努力しさえすれば、大法の神威は必ず現れ、人の心を本質的に浄化する役割を果たしてくれるのです。それは個人の力ではなく、大法によるものです。

 急いで書き上げましたので、内容が広範囲に及んでいるかもしれません。この文章を通じて問題提起し、同修の皆さんの関心を引き、共に努力し、1999年の迫害以前のような正常な修煉環境を少しずつ取り戻せればと思います。そして、新しい学習者も古い学習者も、心を開いて法の中で交流し、共に学び、共に向上していけるようになればと願っています。表現に不適切な点があれば、どうか寛大な心で受け止め、善意をもって理解していただければ幸いです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/3/24/491987.html
 
関連文章