文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年3月1日】以前、中国国内の総合ニュースや迫害事例に関する記事を目にするたびに、中国の環境はあまりにも厳しいと感じていました。かつて私は海外へ行く機会がありましたが、さまざまな複雑な事情が重なり、結局、行くことができませんでした。その後、私が迫害を受けたことで、再び海外へ行きたいという思いが芽生えました。そして、自分に多くの理由をみつけ、家族や財産などを手放せると思い、「海外に出ればもっと多くのことができるし、より良く行えるはずだ」と自分に言い聞かせていました。しかし、よく考えてみると、それらはすべて執着でした。恐れ、安逸、逃避、物事をこなすことへの執着など、多くの執着心が含まれていたのです。
しかし、海外の修煉環境は本当にゆとりがあるのでしょうか? 表面的に見ると、確かにそのように思えるかもしれません。少なくとも、中国国内のような残酷な迫害はありません。しかし実際のところ、本当の修煉は常人のようにただ物事をこなすことではなく、極めて厳しく、またとても厳粛なものです。どこに「ゆるやかな環境」などあるのでしょうか? 修煉においては、取り除くべき執着は確実に取り除かなければならず、それはどこにいるかとは関係ありません。
最近、ふと考えました。なぜ海外の修煉環境に、突然これほど大きな魔難が現れたのか。それは、私たち同修の中に「海外の修煉環境はゆとりがあるのだ」と思っていたことと関係があるのではないでしょうか? このような考えは明らかに正しくありません。しかし、一人や二人がそう思うだけならまだしも、多くの人がそう考えたらどうなるのでしょうか? 特に、迫害を経験した修煉者は、このような考えを持ったことはないのでしょうか? もしそうであれば、それこそ旧勢力に全体的な隙を突かれてしまったのではないでしょうか?
師父は明示されています。「実は物質と精神は同一のものです」(『轉法輪』)。私たちがこのような正しくない念を発したとき、一方では、これらの負の物質を海外環境の空間場に投げ込んでしまい、他方では、旧勢力もこう考えるでしょう。「あなたたちは海外の修煉環境にゆとりがあると思っているのではないか? それなら、本当にゆとりがあるかどうか見せてやろう」
もし同修の中に、このような考えを持ったことがある人がいれば、どうか速やかに取り除いてください。中国国内と海外の唯一の違いは、常人の空間における地域の違いにすぎません。実際には、私たちは一体なのです。たとえ異なる地域に身を置いていたとしても、それぞれが異なる責任を担っており、共通の使命、師に手伝い、法を正し、衆生を救い済度するために存在しています。一つ一つの念を正すことこそ、私たちは本当に圓融となって破られることのできない一体となるのです。
以上は個人の悟りであり、あくまでも参考として、お役立てください。共に精進しましょう。