【明慧日本2020年3月10日】晏殊(あん しゅ、991年 〜 1055年)は小さい時から、正直者で頭が賢く、7歳になると、すでに立派な文章を書けるようになりました。14歳の時、晏殊は当時の江南安撫使(あんぶし)(※1)の張知白から「神童」と呼ばれ、宋真宗・趙恒(北宋の第三代皇帝)に推薦されました。1005年、晏殊は上京し、14歳で宋代最初の童子として、全国各地から来た3100人の挙人(きょじん)(※2)と同時に試験を受けました。晏殊は本来は直接に、皇帝から面接を受けることができましたが、彼はなんとしても科挙の合同試験に参加しようと思いました。「試験を受けて得た成績は、自分の本当の実力だ」と彼は考えていたからです。
試験官は晏殊の要求を受け入れ、彼を他の挙人達と一緒に合同試験に参加させました。試験場で、晏殊はとても落ち着いて、質問を素早くかつ適切に答えました。宋真宗の称賛を得た彼は、「同進士出身」(※3)という称号を与えられました。
翌日、2次試験を受けました。問題は「詩賦論」でした。晏殊はその題名を見て、以前、自分が練習の時書いたことがあると思い、試験官に「試験官様、この題名は以前に僕が解いたことがあるから、他の題名のものを出題してくださいませんか」と願い出ました。
試験官はこれを納得せず、晏殊が余計なことを言っていると思い、「解いたことがあっても構わない。それを書き出せば結構だ。よく書けていれば、同じように受かる。それに、他の題名を出題すれば、お前が失敗したなら、落第することになるだろう。しっかり考えなさい」と言いました。晏殊はすでに腹をくくっていて、「題名を変えなければ、たとえ受かったとしても、それは僕の実力ではありません。題名を変えて、うまく書けなければ、それは僕の学問がまだ十分ではないことです。僕は文句を一つも言いません」と申し出ました。それを聞いた試験官は、晏殊に他の題を出すことに同意しました。
新しい題をもらった晏殊はしばらく考えると、筆を持ち上げ、一気に文章を完成させました。試験官はこれを見て大変驚き、「この子は実に頭が良くて、本当に奇才だ」と思いました。晏殊は誠実と信用をモットーに、新しい題名を出すようにと求め、そして、しっかりと自分の実力を見せ、人々から尊敬を集めました。彼の噂は受験生の中だけではなく、宋真宗の所まで伝わりました。
宋真宗は晏殊を引見し、「お前は才能と学識があるだけではなく、もっと重要なのは、お前には誠実さと言う素晴らしい品格があることだ!」と称賛しました。
本来、自分のよく知っている問題にあって、楽に答えを出して、一挙に有名になれるはずだった彼は、別の題を求めました。晏殊は馬鹿でしょうか? いいえ、彼はとても誠実で、しかも、自分の能力を信じていました。宋真宗は彼のこの性格をとても気に入ってくれ、破格で彼を翰林(かんりん)※4に任命しました。
晏殊は職に就いた当初、ちょうど天下泰平で、京城の大、小の官吏らはよく郊外に遊びに行ったり、街中の料理屋や茶屋で宴会を開いたりしました。晏殊は家が貧しく、酒食や行楽に使うお金がなく、家で兄弟達と一緒に読書したり、文章を書いたりして過ごしました。
ある日、宋真宗は太子に家庭教師を選びたいと言い出しました。そして、大臣の推薦を断り、自ら晏殊を指名しました。大臣達は皆大変驚きました。宋真宗は「晏殊は宴会に参加もせず、家に閉じこもって読書していると聞いている。彼は正直で温厚で慎重な人だ。太子の身の回りに置くには最適な人選だ」と言いました。
晏殊は皇帝に謁見して、感謝の意を表しました。そして、「私は遊びや宴会に参加したくないのではありません。私は貧しくてお金がないからです。お金があれば、私も行なっていると思います」と本音を言いました。宋真宗は晏殊が本当に正直者で、彼をより信用するようになり、彼のことをもっと寵愛しました。
晏殊は誠実で真面目な性格が評価され、皇帝と大臣達の前で自らの信用を勝ち取り、確立しました。宋仁宗・趙禎(北宋の第四代皇帝)が即位されてから、晏殊は大いに起用され、宰相まで上りつめました。晏殊は宰相になった後も、気障(きざ)っぽいことをせず、民衆から支持を得ました。
晏殊は長年要職に付いていましたが、気さくで親しみやすく、賢材を登用し、人材の育成に努めました。范仲淹(はん ちゅうえん 北宋の政治家・文人)、孔道輔(こう どうほ 孔子の45世の孫)、王安石(おう あんせき 北宋の政治家・詩人・文学者)等は皆彼の門下から生まれ、韓琦(かん き 北宋の政治家・詩人・文学者)、富弼(ふ ひつ 北宋の政治家、官僚)、欧陽修(おうよう しゅう 政治家、詩人・文学者、歴史学者)等も彼に育成され、推薦されて重用されました。晏殊は知識人を誠実な態度で対応しました。
一度、晏殊は揚州を通った時、疲れたために、随行する人達と大明寺に入って休憩を取りました。寺に入ると壁には多くの詩が書かれているのを見て、晏殊はとても興味を持ち、椅子に座り、随行の人に壁の詩を読んでもらいました。しかし、詩の作者と身分を言わないようにと言い付けました。
しばらく聞いてから、一つの詩をとても気に入り、「誰の詩だ?」と聞くと、王琪と言う人のものだと答えました。そこで、王琪を呼んで来るようと命じました。王琪が来て、晏殊に挨拶し、2人はしばらく喋りました。とても意気投合した2人はご飯を共にし、食後、庭で散歩しました。ちょうと晩春の時期で、地面に落ちたいっぱいの花びらが風に吹かれて、花弁がひらひら舞い上がり、とても美しい景色でした。
晏殊はその光景を見て心を打たれ、「王先生、私はいい句を思い出すと、いつも壁に書き、そして、次の句を考えるようにしているが、ある詩をすでに数年も温めましたが、未だに次の句を思いつきません」と言いました。
王琪が「その句は、なんという句でしょうか?」
晏殊は「いかんともすべきなく 花は落(ち)りゆく」という句だ。
王琪はすぐに「かつて相い識りしがごとく、燕は帰り来たる」ではいかがですか? つまり、天気が暖かくなって、かつての知り合いのように燕が南から帰って来るという意味です。晏殊はそれを聞くと、「見事だ、見事だ」としきりに言いました。
晏殊はこの二句をとても気に入り、彼は『浣渓砂』の中にこの対聯を使いました。
一曲新詞酒一杯,去年天氣舊亭臺。夕陽西下幾時回?
無可奈何花落去,似曾相識燕歸來。小園香徑獨徘徊。
一曲の新しき詞(うた)に酒一杯、去年の天気、元の亭台。夕陽西に下り、いつか回らん?
いかんともすべきなく 花は落(ち)りゆく、かつて相い識りしがごとく、燕は帰り来たる。小さき園の香れる径、ひとり徘徊(さまよ)う。
晏殊は王琪をとても褒めたたえ、京都に帰った後に宋仁宗に推薦しました。宋仁宗の認可を得て、京城に赴任した王琪は、まず館閣校勘(宋の官吏名)に務め、その後、他の要職も歴任しました。
晏殊が北宋の文壇で輝かしい名声を上げたのは、彼の誠実さと優れた才能と密接な関係があったのです。
※1 安撫使(あんぶし:中国古代の官吏名のことで、中央から地方へ派遣された地方問題を処理する官吏の事)
※2 挙人(きょじん:唐・宋では進士の試験を受ける者のこと)
※3 進士(しんし:隋から北宋中期にかけては科挙の六科の一つで、科挙時代の一種の資格の称号)
※4 翰林(かんりん:高名な儒学者・学士のこと)