親が着実に修めず 子供が大きくなって大法を離れる現象について(一)
■ 印刷版
 

文/同心

 【明慧日本2015年2月2日】(次の文へ

 多くの1999年以前の子供弟子たちは、大きくなってから常人社会に汚染され、修煉を止めました。もしも根源から解決しなければ、この問題はずっと存在していき、ひいてはある年齢層の大法弟子を台無しにする恐れもあります。本文ではその現象をめぐって法理を踏まえて検討したいと思います。適当でないところは皆さんのご指摘をお願いします。

 師父は『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』で「子供は時には山での行動や状態が良くないのですが、それは家にいる親の修煉が良くできていないと私に分かるのです。」とおっしゃいました。周囲の同修と接触する中で、子供弟子に存在する問題は、根源がすべて修煉者である親にあるとよく分かります。常人の中にも「子供は親の影」という言い方があって、親の欠点はすべて子供の身に反映され、子供の欠点もすべて親から根源を見つけることができます。

 中国には「三つ子の魂百まで」という古いことわざがあって、5歳の子供の振る舞いを見れば彼が大きくなってからの様子を想像できるという意味です。西方の学者も0~5歳の経験はその人の一生を決定すると発見しました。5歳になる前に、すでに溺愛によって悪い習慣を身に付けた子供弟子がたくさんおり、その根源もやはり親にあります。

 (一)親子ともに大法の基準から逸脱した現われ

 1、親の学法が表面だけに留まるため、子供も真に大法を理解することができない

 多くの修煉者は法を学ぶことが形骸化し、実生活の中でやはり我が道を歩み、ちっとも向上せず、常人の生活哲学をもって生活します。または大法の最も表面の意味しか理解できず、法理について理性的な認識まで昇華できません。そうすると子供も大きくなったら同じくできません。それは年齢と教育レベルにあまり関係なく、教育レベルが低い年配修煉者の中にとても精進する人がたくさんいて、子供にとって何よりの手本になります。

 一つ例を挙げます。某同修は子供に『洪吟』「洪」を教えて、「蒼窮は無限に遠く 念を移して眼前に到る」を詠むと、子供は「『念を移して』とはどういう意味ですか」と聞きました。同修は「常人の観念を取り除いてこそ、はじめて大法の深い内包を悟ることができる……」と長々説明するつもりでしたが、子供は「あれは一種の功能だと思っていました」と言いました。その言葉は同修の心に悟りを開かせたように、同修は「そう、きみの理解は正しい。低い次元の観念を取り除けば高い次元の神通力が現れてきます。しかし更に深い内包があります」と答えました。子供は続いて「それはまた何ですか」と聞いて、同修は「着実に修煉してこそ、私たちははじめて悟ることができます」と答えました。そのように学法すれば、子供は自ら興味を持つようになります。実は子供には大人のような観念などを持たず、先天的本性はそこにあるから、悟性は決して大人より劣っていません。学法する中で、もし子供に法理を理解した時の楽しさを覚えさせなければ、大きくなってから子供はきっと常人生活の中で楽しみを探そうとします。

 2、親が「苦しみに耐える」ことの内包を理解できなければ、子供も「苦をもって楽とする」ことができない

 『転法輪』の中に「苦しみに耐える」ことについて多く言及されています。多くの修煉者はただ口で読んで自分と照らし合わせもせず、それは典型的な「真に修めていないこと」の表れです。子供に「圓満となって佛果を得る 苦を嘗めるをもって楽とす」(『洪吟』「苦其心志」)を、まるで童謡のように教えます。

 一部の修煉者は修煉の中で「苦しみに耐える」ことの内包を理解できず、仕方がなく苦しみに耐えないといけない時もありますが、なかなか「苦をもって楽とする」という境地に同化することができません。例えば、皆と一緒に発正念する時には、恥ずかしいからやむを得ず両足を組むことにしますが、一人で発正念する時には絶対片足だけを組むことにします。ふだん、できるだけ何事においても楽をしたがって、よく食べてよく遊ぶ機会があれば、多く時間をかけ、金を使っても食べて遊びます。彼らは常人生活の楽しさを享受していますが、修煉に精進する時の充実感と心性が向上した後の楽しさを味わうことができません。彼らが育てた子供弟子は、大きくなってから、彼らよりもだらけて享楽にふけります。

 そのような修煉者は、たとえ裕福な家庭でなくても、必然的に子供を甘やかして、子供にだんだん悪い癖が付くようになります。裕福な家庭であれば更に、子供は常人の子供よりも悪い子になります。そのように甘やかされて育った子供は、苦しみに耐えることが良いことであると思わず、少し苦痛を嘗めるとすぐに我慢できなくなって不機嫌になります。修煉者である親はただ譲歩して黙認します。

 病魔に襲われる時、同じく39℃の高熱を出しますが、精進する子供弟子は両親に励まされて学法して煉功し、一日だけで乗り越えられます(両親もきっと、いつも精進することによって病の難関を突破しています)。一方、溺愛された子供弟子はどんな情況でしょうか? ベッドに寝て親がそばで『転法輪』を読み上げて、親が発正念してくれて、親が美味しいものを作ってくれます。ずるずると症状を数日も引き延ばしてやっと快復します。そのような親自身も、病気の関に遭った時は横たわって師父の説法録音を聞いたりして、精進することによって病魔に勝ち抜くのではなく、ただそのように耐え抜いただけです。

 そのように溺愛された子供が大きくなってから、一人で病の関に遭った時にどう過ごしますか? 修煉の道に多くの辛いことがありますが、彼はすべて正念で対応できますか? 子供弟子は幸運にも幼少から大法の光を浴びていたのですが、大きくなってから大法を離れたのは、大半が苦を嘗める時に辛いと思い、転じて常人の安逸な生活に溺れたのです。しかし「苦」とは自分の業力に由来するもので、実は彼らは修煉を止めて常人生活に戻ってから、楽な生活は一時的なものに過ぎず、今後の人生において更なる苦難が彼を待ち受けています。常人ならば師父によって業力を消去されることはなく、すべて自分で耐えなければならないからです。

 知らず知らずのうちに子供を溺愛してしまうことについて、親自身は気づきにくく、指摘されても素直に認めることができません。最後に子供弟子の修煉を台無しにして、後悔しても挽回できません。

 3、親は常人レベルの「善」、「親切」から昇華できず、自己中心的な子供を育てる

 師父は『転法輪』で「どんな環境の中でも人には親切にしなければならず、まして自分の身内のものの場合はなおさらです。親だろうと子供だろうと誰に対しても同じように、何事につけてまず人のことを親だろうと子供だろうと誰に対しても同じように、何事につけてまず人のことを優先に考えるならば、それはもはや私心ではなく、慈悲心によるもので、慈悲そのものです」と説かれました。

 一部の修煉者は師父がおっしゃった「親切」を、生活の中で子供を溺愛することのように理解しています。子供に良い食事と良い生活環境を提供して、裕福に暮らさせます。そのように育てられた子供は、「他の子供弟子は一夏にアイスを一本も買わずに、節約したお金を資料拠点に寄付した」と聞いても感動することはなく、そのことが自分とどんな関係があるのかも考えません。彼らは時には小遣いを資料点に寄付したりもしますが、普段はやはり主に自分の享受に費やします。親の溺愛は彼を自己中心的な子供に育て、溺愛は我が子の「徳」を消耗させ、根基と心性を壊す行為です。

 4、親が「忍」をやり遂げられず、子供はさらにわがままになる

 親が「忍」をやり遂げられなければ、子供はさらにできません。学校で同級生に虐められた時、子供自身はそんなに気にしていないのですが、我が子が学校で迫害を受けたと思って、学校に行って担任の先生や校長先生に訴える修煉者がいます。それは、個人修煉においての心性の試練を、法を正し邪悪を取り除くことと混同した考え方で、法理がはっきり分かっていないことの現われです。そのような環境にいる子供弟子は、大法修煉者の「忍」を親から教わることができません。

 もう一つ例を挙げます。ある子供弟子の誕生日に、修煉者である親は、彼をスーパーに連れて行き、プレゼントを買ってあげようとしました。子供は何を選んだと思いますか? 家にハンガーが足りないため、その子は家庭用ハンガーを10個選んで、これを誕生日のプレゼントにすると言いました。そのような子供は幼い時から成人になるまで、ほとんど両親に手間と心配をかけることなく、学校においても先生や同級生に好かれる良い子です。

 多くの子供弟子は自分が家庭内の「小皇帝」だと思って、親に何か買ってほしい時に買ってくれないと、すぐに泣いて騒いで止みません。実はその時はちょうど子供を躾ける良い機会で、子供に自分の欲求を抑えることを覚えてもらうのです。しかし多くの修煉者はただ子供の欲を何でも満足させてあげて、その対応は大法の要求と正反対で、子供の心性と根基を壊していても自覚しません。常人の中でも「わがままは失敗の人生しか作れない」と言っていますが、子供弟子は尚更わがままの魔性に制御されてはいけません。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/12/30/302310.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/1/31/148177.html)
 
関連文章