学法する時 法が頭に入るようになった
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2020年10月15日】数年間、学法しても法が頭に入らず、とても悩みました。それは自分が主意識を強く持てず、人心を多く抱え、恐れる心が強いことに関係しており、根本的な執着にも関わっています。とにかく私は出来の悪い弟子でした。

 以前、私は法を暗記したことがあり、ある程度暗記できていると思っていました。たとえば、同修と学法する時にほぼ本を見ないで同修について暗唱することが出来ます。以前、法を暗記できていなかった時に、法を暗記することはとても素晴らしいことだと思いました。法を暗記している間の修煉状態は比較的良かったのです。思想の中から顕れた色欲の念も大分薄まり、心性の関もすんなりと乗り越えられたので、私は法を暗記する良い面は知っていました。しかし、後に法を暗記することが出来て、すらすらと暗唱することができたとき(実はまだよくできていません、本を見ないと長いタイトルを暗唱できません)、再び法を暗記する時に集中できなくなり、法を通読する時に気が散り、どの様に学法すれば頭に入るのか分からず、知らず知らずのうちに良くないサイクルに陥りました。発正念をすることは、ほとんど形式的に流れ、間もなく発正念の時間がやってくると思うと、心から避けたい念が生じてきますが、発正念は行なわなければなりません。けれども、発正念をする時に、頭の中でくだらないことを思いめぐらします。発正念が終了する時間になれば、すぐさま立ち上がってその場を去ります。同修が法を暗記することについて書いた交流文章もよく読みましたが、現在は読まなくなりました。自分のプラスにならないと誤解していたからです。

 学法しても法が頭に入らなかったので、本能的に学法することに抵抗し始め、特に『轉法輪』を学ぶことです。昼間は仕事と家事に追われて、夜の学法は思想業力に妨害され、法が頭に入りませんので、動態ネットのサイトを開いて閲覧して気晴らしをしました。充分に閲覧して満足した時は既に10時です、そのあと『轉法輪』を開き読み始めます。しかし、読んでいるうちに、凄まじい睡魔がやって来ると、まず少し睡眠をとってから学法しようと考え、仮眠をとるつもりが、ぐっすりと寝入ってしまい、夜の12時の発正念はほとんど行なったことがありませんでした。明け方は3時に目が覚める時と4時に目が覚める時或いは5時に目が覚める時がありますが、目が覚めた後、そんな自分にがっかりして気落ちしました。なぜなら、時間が足りなくなったからです。時間がたりる時でも、静功を煉っても清浄な状態になれません、特に動功を煉る時、立ったまま頭の中で妄想を思いめぐらし、ちっとも清浄な状態になれません。悔しい気持ちも加わり、言葉で表現できないほど心が辛いまま、動功を中止して、静功だけ煉ればよい、また次の晩に調整すればよいと考えるのです。しかし、次の晩になっても前日と同じことを繰り返すだけでした。

 どんなに努力しても、夜の良くない状態から脱出できません。稀に状態が好転する時もありますが、良くなったと思ったら、また直ぐに元に戻ります。このように、煉功は三日坊主のままでした。

 真相を伝えることにおいてもなおさらです、真相を聴いて納得してくれた人はほとんどいません。法を実証することは、ただ家で法輪功の資料を印刷する程度です。私はとても辛く、絶えず内に向けて探しました。いったい私はどうしたのでしょうか? どうすれば精進できるのでしょうか? 

 長年、私の心はずっと良く修めようと思っており、精進したい望みを一度も放棄したことはありません。しかし、望みはただの望みです、実情はこの途切れない悔いの中で過ごしてきました。一時期、自分なりに努力をしてみました。例えば、ベッドに入って睡眠をとらない、パソコンの前で法を暗記する、眠くなったら少しだけ仮眠をとる等です。しかし、1週間しか続きませんでした。その後、人為的にベッドに入って睡眠をとることを拒否し続け、たとえば、ソファーに腰をかける、床に座布団を置いてそこに座る等しましたが、結局寝てしまうのです。

 去年、長い間学法しても法が頭に入らず、毎日動態ネットを閲覧して時間をつぶしていました。2013年、私のふくらはぎ辺りが腫れましたが、怨恨心があることに気づき、取り除いたら、脚は治りました。しかし、今回は左足のふくらはぎが腫れあがりました。私が勤めている預かり保育所では、学習を指導しているために毎日生徒を送り迎えしています。片足が太く、もう片足は細い状態では、ズボンを穿くことも難しいので、仕方なく、緩いものを選んで穿きますが、それでは解決されません。自分は学法する時に、法が頭に入らず、12時の正念も発しておらず、毎日動態ネットを見て、多くの人心を持っていることが原因だとわかっていました。根本な原因から自分はなぜ精進できないのかについて探さざるを得ないのです。なぜ自分は主意識を強く持つことが出来ず、いつ迄たっても人心を取り除くことが出来ないのでしょうか? 同修と交流した時に「私は私の為自分の為という基点に立って修煉しており、そのため精進できなかったのだと思います、今後、私の心を取り除くことに向けて始めたいと思います」と話しました。

 その後、私は毎晩12時から1時まで発正念を続けて、人心を見つけて取り除く努力をしました。数カ月後、脚の腫れは収まりました。

 しかしその過程は容易ではありませんでした。主意識を強く持つことが出来ず、思想業力が大きいため、法が頭に入らず、学法を終えても学法していなかったかのようでした。何をしても、様々な嫉妬心、不平不満に思う心がめぐって、まったく清浄な状態になれません。しかも、思想業に従い不満な気持ちが膨らみ、私と同じように主意識を強く持てない母に愚痴を聞いてもらい、母にまで妨害をもたらしました。その後、私心は必ず取り除くべきだと気づき、非常に後悔しました。「私にとって修煉はなぜこんなにも難しいのだろう」と自分に問いました。

 思想業力を取り除くために、師父の『二〇〇四年シカゴ法会での説法』の説法を暗記しようと思いました。

 師父が口を酸っぱく説かれた法の中で、執着の根本状態と執着を取り除く過程を大法弟子にはっきりと話されていました。自分の執着を取り除かない理由は一つもないと悟り、私は繰り返しこの説法を暗唱しました。すると良い効果を実感出来ました。

 しかし、この数行の説法だけに頼ってはなりません。『轉法輪』を良く学ぶことが肝心なのです。

 年初めに、ある交流文章を読みました。内容はある同修が学法することに対し、量を求めず、法を暗唱する時にも全ての文字が目の前に顕れる状態でなければならないという話でした。その話から私は大きなヒントを得ました。徐々に私は学法する方法の経験についてまとめてみました。一段の法を、繰り返し読むことです。法が頭に入らない特殊な私の状況の場合、実際、思想業の妨害が非常に多く、それらが私と法を隔てていました。

 もし一段落の法を一回しか読まない方法で通読し続ければ、思想業力が全く取り除かれません。いくら通読しても、一講を読み終わっても、何を読んでいたのか分からず、思想業力が頭の中で残されたままです。そこで、私は一段落の法を繰り返し読む方法を用いたのです。読む回数に捉われず、全ての法が頭に入るまで、即ち頭に法以外に何も考えなくなるまで読んで、そして次の段落に移りました。

 このように学法して、一つの良い点に気付きました。法を多く読むことによって、法が頭に入らない問題が解決されたのです。法を良く学べた時には、発正念をする時に直ちに集中できて、40分間続けて発正念をすることが出来ます。毎回の学法が清浄心を保てないことが多いため、私はこの方法を使い、法を読んでいます。

 学法して法が頭に入れる方法を見つけたので、自ら法を学ぶ意欲が湧いてきました。発正念の時刻までの数分間でも本を手にし、一段落の法を数回読みます。自分の今の修煉状態はまだ完全に調整できておらず、法輪功の資料を配る時恐れる心がまだ多く残っていますが、突破口を見つけたので、心も少し落ちつきました。私のような出来の悪い弟子でも見捨てないでいて下さる、師父に感謝を申し上げます、同修達が自分の経験を惜しまずに明慧ネットに載せて下さる交流に感謝の意を表すために、私は自分の体験を書き出して、私と同じような状態を経験している同修に少しでも参考になれば幸いです。

 私は地区の同修の間で学法することに対し、互に張り合っている傾向があることを感じました。例えば、一日に法を3講読んでいる同修がいます、ほかの同修もそれを真似します。法を3回読むスピードが速いので法を読む質は問いません。もう一人の同修は去年「病業」で亡くなりました。長年、彼は地元でかなり大きな役割を果たしていました。毎年のカレンダー、掛け軸作り、邪悪の迫害が最も深刻な時期に、彼は自らこれらの大法の仕事を担って、大きな役割を果たしていました。不当に連行された時、手錠がかかったまま派出所の警官のすぐ目の前で逃走しました。その後彼は路頭に迷い、行く当てを失いましたが、後に地元に戻って、大法の仕事を続けました。邪悪の度重なる妨害、甚だしきに至っては娘が邪悪に不当に連行された時でも、自分の家にある大法の資料を動かさなかったのです。彼は真に固く師を信じ、法を信じている弟子でした。

 何かを行なおうとする時の人心が原因なのかもしれません。彼は家で一人で学法している場合が多いので、学法することが形式的になっていたのかもしれません。その同修の学法する光景を見たことがあります。毎日午後に1講を学び、終わると任務を終えたかのように直ぐにほかのことに取り掛かり始めます。発正念を彼は重視していませんでしたし、発正念の重要性も認識できませんでした。去年、その同修が「病業」でかなり深刻な時に、私は彼の家を訪ねました。その同修に発正念のことを言及したら、発正念はどのように行なえばいいのか分からない様子でした。しかも、発正念をすることが続けられない、都会の大法弟子が一日3講を読んだというので、自分も同じようにしても、法が頭に入って来ないと言いました。数日後、彼の肉体は連れていかれました。もちろん、その同修が連れていかれた原因はほかにもありますが、主に修煉が形式的に流れたからだと思います。

 もう一度師父の救い済度に感謝を申し上げます、弟子として私は必ず精進いたします!

 同時に明慧ネット上の同修の惜しみない分かち合いに感謝致します。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/17/411811.html)
 
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