『愉しみながら死んでいく』を読んで
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文/中国河北省の大法弟子

 【明慧日本2020年10月19日】明慧ネットの7月30日に掲載された『愉しみながら死んでいく』を読んで、いろいろな思いが現れました。私の最近の修煉状態はこの文章の内容と同じでした。

 私は1996年10月から法輪大法を修煉し始めました。修煉したばかりの時、師父は私の体を浄化してくださいました。私は約8年間「毎日薬を飲み、毎月病院に行き、毎年入院する」という状態から、体が軽くて元気いっぱいになりました。今まで23年間に一度も薬を飲んだことがありません。もっと大事なのは、私はどのように立派な人間になるかが分かり、人間になる目的も分かりました。私は「必ず最後まで修煉し続け、どんな難関があってもこの意志は変わりません」と誓いました。

 修煉の道で、私はいろいろな辛いことを嘗め尽くし、黒い雲が城壁の上にかぶさることも体験したことがあり、邪悪の迫害も乗り越えました。しかし、最後に、私は何とかリラックスしたいと、ネット小説や常人のニュースに夢中になりました。少し暇があると、すぐ「今日の天気予報を見よう」という考えが浮かび、それが終わるとスマートフォンで、あまり長くは見ないのですが、天気予報、推薦されたニュース画面、面白い映像等、次から次へと、気づかないうちにすでに数時間が過ぎてしまうのです。その後、後悔の念が出て「私はなぜこんな愚かなことをやるのか? なぜこんなに低いレベルのミスを犯すのか」、自分は「大法弟子」になる資格がないと思い、気持ちが凹んでしまいました。しかし私は大法弟子だと自覚し、すぐに発正念をして、自分自身の良くないものを取り除き始めました。

 このようなことが数回あり、凹んだままの時もあり、学法のとき落ち着かず、朝の煉功も起きられず、さらに朝の目覚ましも聞こえない時もあります。私はこの問題の深刻さを意識して、発正念に力を入れ、学法も増やし、大体2、3日調整して何とか回復しました。しかし、一定期間が経つとまた同じような問題が起き、スマートフォンで小説などを読みます。最も深刻な時、私はネットの小説を夜10時から朝6時まで読んで、8時間ずっと座ったままなのに全然眠くありませんでした。普段、学法する時、時間が長くなると、眠くて疲れを感じますが、こんな長い時間小説を見てなぜ眠くないのでしょうか? なぜこんなに元気で、なぜ見続けられるのでしょうか? 途中でアラームが数回鳴り、12時の発正念の時、「もう少し見よう」と、見続け、朝3時の煉功のアラームが鳴っても、閉じてまた見続け、朝6時の発正念の時は、すでに聞こえなくなり、スマートフォンの電量がなくなり、充電してまた見続けました。

 2009年、私は地元を離れて他の所で暮らしている時、また、徹夜でネット小説を見ることがあり、その後大変後悔しました。発正念や学法を通して、正念が強くなると、今後このようなことは絶対しないと決心しました。私は中指を刺して血を出し、血で大きな「!」を紙に書いて、パソコンの隣に貼り付け、自分に警告しました。これ(!)は数年間置きました。師父は私の後悔の気持ちを見て下さり、私の多く思想業力と邪悪の要素を取り除いてくださいました。

 修煉前の人生を振り返って見ると、旧勢力が私にこのことを按排しました。私は田舎で生まれ、文化大革命を体験したことがあります。その時、多くの文物や書籍が「破四旧」運動によって破壊されました。本を好きな私が、1冊の本を見つけることも非常に難しく、好きな本が見つかればすぐに買いにいきます。たとえ、地面に散らかった紙にしても、その上に何が書いてあるのか興味がありました。私は大学に入った時は、ちょうど文化大革命が終わったばかりの撥乱反正の時期で、多くの図書館や映画が解禁になりました。私は大学時代に大量の古今東西の名著を読み、1カ月に十数本の映画を見ました。私は文化の真髄を取り込むと同時に、多くのごみ文化も取り込んで、更にこれらのごみの文化を良いものとして鑑賞していました。師父は「小説の中にエロチックなものを少しでも書き込まないと、まるでその本が売れないみたいにいわれ、発行部数が何よりも問題とされています。映画やテレビにベッド・シーンがなければ見る人がいないかのようであり、何よりも観客動員数や視聴率がまず問われているのです」[1]と説かれました。現代小説は色情と暴力を通して人の目を引きつけます。

 社会に入り、私は政治科の教師をしています。仕事のため、ニュースや、大事な書簡を読むことは私の仕事の一部になりました。これによって、時事や党文化に注目することが自分の執着になりました。修煉してから、師父は私にこの面の業力を多く消去してくださいました。残りの部分は、自分が向上する時突破するのですが、主意識を少しでも緩めると、思想業力や他の空間の要素に操られます。

 師父は「自分の身体を制御する意志すらなく、いつももうろうとしていて、元気が出ません。そうなると、副意識や他の空間からの信息がすぐ邪魔に入ろうとします。各空間にはさまざまな次元があり、さまざまな信息が主元神の邪魔をしようとします。まして、主元神が前世に悪いことをしているかも知れないような場合には、債権者が彼の命をねらいに来ることもあります。どんなことでも起こりうるのです」[1]と説かれました。

 私はネットへの癖を止めようと、内に向けて探し、自分が好む心、色欲心、主意識を緩める心が見つかりました。ネットで大量の時間を無駄にするのは、命を無駄にすることに等しく、師父の忍耐によって換えられた貴重な時間を無駄にしました。

 師父は、「これは宇宙人の技術で、魔はそれを利用して、あなたを誘惑しています。あなたが全て放棄して、それに夢中になるように仕向けています。生命を無駄にしているのに、まだ未練があってやめようとしません! 人を為す角度から見ても、あなたはすでにおかしくなっているのに、修煉しているならなおさらです」[2]、「人間は目で何を見ても大丈夫で、見たくなければ見なければいいと言っています。違います。目に入ってしまえば、身体に入ってしまいます。いかなるものもほかの空間で身体に入ることができます。長く見れば見るほど、たくさん入ってきます。テレビ、パソコン、どのようなものでも見たら、入ってきます。頭と身体にこれらの良くないものが多く入ってしまえば、あなたの行動はそれに制御されてしまいます」[3] と説かれました。

 私は時々資料を調べるため、スマートフォンをネットに繋ぎます。資料が見つかったら、他の内容を見ます。ある力が私を操って、余計なものを見させます。気づいたら、「私は何をしているのか? 大量の時間を無駄にして、なぜ意気地がないのか? なぜ自分を制御できないのか?」と後悔します。私は、「スマートフォンを勝手に触らない。基本的な電話機能、ショートメッセージ機能しか使わない。それ以外の他の機能は触らない」と意識しました。テレビ、パソコン、スマートフォンは大きな魔窟で、中に数え切れない魔が虎視眈々としており、開くと、それらはわっと押し寄せ、私の空間場に入り、私の肉身を操ります。だから、連続で8時間以上ネット小説を見ても疲れないし、眠くなることもなく、さらに、トイレに行く必要もありません。旧勢力はこれらの魔を操って、いろいろ形を変えて私を誘惑し、私に娯楽を与え、離れさせないようにします。時々、私が少し休憩しようと思う時、またスマートフォンを見せるため、スマートフォンを開こうという衝動を私に与えます。

 これらの魔は他の魔より、更にずるく、更に自分を隠し、更に人を引きつけ、人を娯楽の中で、知らず知らずの内に死亡させるので、とても邪悪です。テレビ、スマートフォン、パソコンなど、ちょっとでも見れば、すぐ引きつけられます。気を付けなければ、その中に落ち込んで、やめようと思っても止められなくなります。重視しなければ癖になり、止められなくなり、知らず知らずに滅んでしまいます。本当にやめたいなら、やはり苦痛の過程を経なければ、恐らく繰り返すことになるでしょう。

 師父は、「常人社会に来ている間は、ちょうどホテルに泊まるようなもので、しばらく滞在したら、たちまち去っていくと言われます。ところがこんな場所に未練がありすぎて、自分の家を忘れてしまっている人がどうしてもいるものです」[1]と説かれました。我々修煉者に対して、正法修煉の機縁は極めて貴重で、今回しかなく、時間もありません。精進し修煉すれば返本帰真できますが、逆に、永遠にここで滅ぼされる可能性もあります。師父は可能な限りの方策を考えて私たちに成就するようと言われ、旧勢力は妨害して私たちが成就しないようにさせます。もし成就できなければ、自分だけを滅ぼすのではなく、数え切れない衆生も滅ぼされ、自分の世界も滅ぼされるのです。

 師父は、「この瞬間は千金、万金に値します。この道をしっかり歩むことは最も素晴らしいことです」[4]、「人間のこの空間での時間がいくら長くても、神から見れば一瞬のことですが」[5]と説かれました。

 明慧ネットに掲載された「現代の『三大魔物』に用心しよう」という文章の中に、「大量の魔が横行しているこの時代において、中国共産党による迫害を前に冷静に対処できるのに、電子ゲームの前では無力になってコントロールが効かなくなり、魔に支配されていても気づかない同修がいます。修煉は万人に阻まれるより、自分自身から降参することが一番恐ろしいのです。心が少しでも歪んでしまえば、危険な目に遭います。貪欲や執着、遊び心が出て来た瞬間にそれをキャッチして取り除き、初めてこの三大魔物による妨害から逃れ、理性を保って正しい道を歩むことができます」と書いてあります。

 「事事対照し 做すところ到るは是れ修なり」[6]の法理をはっきり認識し、しっかり正念を発して、また「做すところ到る」まで工夫する必要があると認識しました。時々、どちらか正しいか、どちらか正しくないのかと執着に従って間違って行なったことがあります。常人には、「いくら知っていても、しっかり行なわなければ、知らないに等しい」という言葉があります。執着心があり、しっかり行ないたい場合、やはり覚悟をする必要があります。その執着心について、しっかり自分を律しなければなりません。

 私はこの交流文章を書いている時、いろいろな妨害が入っていると感じています。例えば、スマートフォンを触りたいとか、天気予報を見たいなどの考えが常に浮かびます。私は一念(すべての妨害を無視する)を守って、この文章を最後まで書いて、その妨害を暴露することにしました。私は必ず自分を律し、精進して前に進みます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地の説法十一』「二〇一〇年ニューヨーク法会での説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地の説法七』「シカゴ市法会での説法」
 [5] 李洪志師父の著作:『各地の説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
 [6] 李洪志師父の詩:『洪吟』「着実に修める」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/21/411985.html)
 
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