文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年2月9日】私は1949年3月生まれで、7人兄弟姉妹の長女です。苦しみや辛さに耐えるのが当たり前で、苦労が重なって病気になり、潜んでいた病が全部発病しました。極度の気の欠乏と血虚(けっきょ)で、私は「凍った人」のようになり、あらゆる方法で体を温めましたが、眠ることができませんでした。
1990年10月、姑の病状が重くなったので、私は寺に行って佛に拝みましたが、役に立たなかったので憑き物の気功をやり始めました。私は憑き物の気功をとても頑張ってやり、市の気功協会でもかなり「有名」でした。憑き物の気功で自分の病気はちっとも治らないのに、私は他人には処方箋を書き「病気を治す」ことができました。私は身体全体が癒着してしまい、病院に行って手術を受け、病院と気功協会から「生きているが死んだも同然の人」と呼ばれました。
私は40才を過ぎたばかりでしたが、自立生活ができなくなり、杖をついてやっと足を動かすことができました。1993年から頭からつま先まで病気だらけで、どこの病院に行っても結果は「家に帰って後の準備をした方がいいですね」ということでした。
しかし、絶望に瀕した時、私は幸運にも法輪大法を得て、新しい生命を得ることができました。
大法の奇跡と素晴らしさ
1994年5月28日の午前、私は師父の説法を聴きに行きました。途中では乗り換えが必要で、バスに乗る時、夫に支えられて一緒に行く中で、2人が上で私を引っ張り、2人が下で私の足をあげてくれました。バスから降りる時は、下で私を受け止める人と、上で私をしっかり固定する人が必要でした。しかし、私が師父の説法を聞き終わって帰る時は、自分でバスに乗ったり、降りたりできました。講習会の四日目には卵巣を切除している私に生理が来て、私は法輪大法の奇跡の生き証人となりました。
九日間の講習会のとき、夫は毎日仕事帰りに私を迎えに来てくれました。ある日夫が私を迎えに来た時、ちょうど師父が、私達に煉功を教えてくださる時間に間に合いました。師父は夫にも煉るように勧められました。自ら夫の動作も直してくださいました。それ以後、夫の胃の出血、貧血が知らぬ間に良くなりました。
講習会が終わったある日の午後、私は突然ベッドの三つの面で30cm以上高く燃え上がる黄金色の火炎を見ました。この不思議で玄妙な光景は約3時間も持続しました。その夜、寝たら熱くてたまらず、夫にベッドの上に敷いた電気マット、毛皮のコート、湯たんぽを全部持って行ってもらいました。その時から、私の体は冷えがなくなり、寝ても寒くないのです。
講習会が終わった6月12日、嫁は赤ちゃんを産んだばかりでベッドの上で横になっており、夫も息子も家にいませんでした。赤ちゃんが泣くと、私は自ずと行って赤ちゃんを抱きました。ちょうどこの時お湯が沸いたので、私は片手で赤ちゃんを抱いて、もう一方の手で炉の上の沸いたやかんのお湯を魔法瓶に入れました。やり終えた後、気がつきました。あっ! 自分の面倒さえできなかった私が、これらの事ができていたのです。
なんと私には病気がなくなり、何でもできるようになりました! 行きたい所に行けるし、したい事ができるようになりました! 引きこもってイライラしていた私は、それ以来明るくなり、いつも笑顔になりました。人に会う度に「大法はあまりにも不思議で、あまりにも素晴らしいのです。あなた達もみんな大法を学びに来てください!」と言いました。
私は師父をこの上なく崇め敬い恩を感じる心で、その後大法を広める活動に全身全霊を込めて、同修と一緒に、この県の48の鎭と郷に煉功点を作りました。周辺の県にも行って法を広め、市の輔導站の各地へ、法を広めることについて行き、閬中(ろうちゅう)、蒼渓(そうけい)、重慶、遂寧(ねいすい)、簡陽(かんよう)、資陽、彭州(ほうしゅう)、汶川(ぶんせん)、阿堰(アバ)、貴陽、石家荘に痕跡を残しました。道中、ずっと師父のご恩のもとで、順調に進めることができました。正に師父っがおっしゃった「修は己にありて、功は師にあり」 [1]の通りでした。
迫害はとっくに企まれていた
1999年ちょうど新年が過ぎたころ、現地の警察署から人が来て、私を県の体育委員会に連れて行きました。毎朝8時に迎えに来て、夜6時にやっと家に帰らせました。いわゆる県の体育委員会が、法輪大法をわが県で広めた状況を知りたい、ということでした。当時の私はなんととても嬉しく、体育委員会の支持があれば、法輪大法は更に速く、更に順調に、更に安定して広められると思っていました。それで私は、毎日とても素直に彼らに私の至る所で見たもの聞いたもの、現地で法輪大法が広められた後、現れた新しい風貌、及び次々に現れる良い人たち、良いことなど、その中には政府機関、工場、鉱山、幸福院なども含めて話しました。その時は毎日、私はずっと幸せな回憶に浸っていました。
1999年3月20日、私の誕生日に、実家から私の誕生日を祝う為に、私を連れ出して外食しようとしていた時、逆に県の体育委員会の人たちに「私達は彼女を早いうちに法輪功から離れるようにしているのだ! お前達はここに来て邪魔するな。また来たら、それは公務妨害だ」と厳しく叱り付けられ、皆は怖くて昼食も摂らずに帰っていきました。
息子は納得できずに警察署へ行って「私の母に何の罪があるのでしょうか? あなた達がこれ以上家に来て、母親を連れて行くのは許しませんよ」と問い詰めました。署長は私の息子に「大丈夫、彼らは法輪功がわが県で広められた状況を知りたいだけなんだ。安心してください。私達も上の者もみな法輪功を煉ってから、警察署もとても受益していることを伝えたよ。例えば、毎年最も調整しにくい田植えで水を奪い合って喧嘩して血を流す事がなくなったり、兄弟の不仲、姑と嫁の揉め事や近隣とのトラブルなどがとても少なくなったことなどね」と言いました。
家に帰って息子からそれを聞いて、私は息子に「彼らにたくさん聞かせるのも、母が大法を広めることで、師父がいらっしゃり、大法がいらっしゃるので、大丈夫だよ」となだめました。そこで、私は毎日また更に詳しく、法輪大法が全国各地で広められた盛況を紹介しました。例えば、阿堰(アバ)州の公安局長が「法輪功がどこで法を広めても、彼らがいる所で如何なる費用も一切もらわないことだ」と言った事を彼らに伝えたり、法輪功を煉った後出てきた不思議な事例も伝えたりしました。小さい頃から毛髪がない女性が修煉してから美しい髪の毛が生えてきた話とか、脳萎縮で麻痺状態に陥っていた青年が3カ月で回復したこととか……。
4月上旬、彼らは我慢できずに本性を出してきました。その舵取り役は「お前は帰ってよく考えて、お前の師父と連絡を取っている秘密の番号や、輔導員の名簿を出せ、そうでなければお前は家族と団らんしようなどと思うな」と言いました。私は驚愕しました。彼らは元々居心地が悪く、陰険で悪辣だと思っていました! 秘密の番号などあるはずもないし、私はいわゆる名簿を出すはずがありません!
警察署長のおかげで、彼らは家に来て私を連れ出さなくなりました。しかし、私の周りにはたくさんの馴染みのない顔ぶれが現れました。川に行って服を洗っていると、岸辺で私を見つめている人がいたり、買い物に行くと、数メートル離れた所に立っている人が頷きあって合図をする人がいたり、しゃがんで野菜を選んでいると、直ぐにつま先立ちして下を向いて見ている人がいたり、家で何かをしているときでも、いつも窓際や出入口で行き来する人もいました。しかし私はちっとも怖くなく、彼らがあまりにも可笑しく感じられ、自分のすべき事を依然と同じようにしました。
1999年7月20日その日、いわゆる体育委員会の舵取り役は陰険に笑いながら私に、「私は即ち県の公安局の刑事捜査科の科長・某某だ。私達はお前を半年以上調査し、至る所にお前の痕跡があった。お前が輔導員の名簿を出すか、或いは私の車に乗って、お前の行った所を確認さえすれば、お前は無事である」と言いました。
数回の不法捜査で2回家財を没収される
1999年7月20日、その日、私がいわゆる名簿を出さず、確認もせず、法輪大法の素晴らしさだけを絶えず話したので、彼らは当惑のあまり怒り出し、私を夜12時まで監禁してからやっと私を家に帰しました。同時に家宅捜索をし、家財を没収しました。家に入ってすぐ、壁に貼っていた『法輪功動図解』と、筆で書かれた『法輪功の簡単な紹介』を引き裂いてにじり、壁に掛けていた師父の法像、『論語』図、法輪常轉図と私の講習会参加証明書、修了証、師父と一緒に撮った写真、私の障害者手帳(5才の時、左目を失明)、法を広める為に準備した数十の法輪バッジ(100個/板)、無料で気功を教えると書いてある旗、積み上げていた法輪功の簡単な紹介資料、数セットの煉功服を奪って行きました。
2003年5月23日午前9時頃、県の610弁公室の職員はパトカー3台と、拘置所の所長など十数人の警官らを連れてきて、工場にある私の家のドアを騙して開けると、強制的に不当な捜索を行い、家財を没収した。拘置所の所長は「証拠が足りない」と言い、早めに去りました(後で分かった事ですが、法の執行時、法に違反しなかったこの拘置所の所長は、その日のうちに直ちに解職されました)
不逞なやからは私が師父に会ったことがあり、状況を掌握するために、私を警察署に連れて行って軟禁しました。彼らは再び私の家に戻って来て、ドアを破り、数十枚の法輪バッジと30枚の長めの「真・善・忍」章、青い緞子に手で刺繡した法輪の旗、煉功服2セット、宣伝用のポスター233枚、十数冊の大法の書籍、二つに積み上げた『洪吟』の書籍、私個人の5万元と、孫娘のお年玉を盗んで行きました。
酷く殴られ痛めつけられたが、師父の保護を受け生き延びる
2003年5月23日午前、私は警察署まで連行され、警官は私を細長い腰掛けに手錠をかけ、2人の警官に交代で尋問され、飲食はできませんでした。5月24日午後6時になって命令を下し、私を洗脳班に送りました。ドアの外側には鍵がかけられ、コンセントが無く、空っぽのベッドと、プラスチック製のたらいしかない空室に、私を監禁しました。
同年5月25日の早朝6時頃、夢の中で何かで頭を強く打たれた後、私が寝返りを打ってから座って見ると、雲つくばかりの3人の大男が、ベッドに乗って殴ったり蹴ったりしました。私が「なぜ私を殴るのですか?」と聞いたら「敢えて聞くか!」と答え、また私を何度も殴りました。私は、彼らに皮靴を履いまま蹴られるとベッドから落ちました。それでもまだ彼らは私の胸、腰、下半身を強く蹴りました。その後、女性用ストッキングで私の両手を後ろにして縛り、その上シュロ縄でちまきを巻くように私の両肩から足首の後ろまで巻くと、私を地面に倒しました。そして強く蹴りながら大声で、「それでも赦(ゆる)しを求めないのか!」と罵りました。
洗脳班で取り囲んで見物していた仲間達がドアの外で「昨晩来たばかりの人を、今日こんなにするって、あまりにも酷いんじゃないのか!」と言いながら、がみがみと叱りつけながら外へ出ていった。出る前に太った警官が、また酷く私の腰を強く蹴りました。
2003年5月25日午前10時頃、県の610弁公室の職員と、県の公安局の女性教導員が来て、この光景を見て、公安局長(この女性教導員の夫)に報告し、洗脳班の人はやっとペンチで私の肉に食い込んでいたシュロ縄と、縛っていたストッキングを切りました。しかしその時は、私はすでにしっかり立つことができず、人に支えられて下の階の弁公室の外側まで来ると、洗脳班の頭目は多くの人の前で、私を何度も殴りました。私が災いを引き起こしたので自分が解職されたと罵りました。当時私は全身が震えるだけで、立つことができませんでした。誰かが私の名前を絶えず呼んでいましたが、私の手を握られている事しか分からず、細長い腰掛けに座っていました。歯はその時すでに3本が殴られて落ち、数日後にはまた4本が落ちました。昼になると、私の腰とお腹は腫れ上がり、出産直前の妊婦のお腹よりも大きくなりました。
午後4時~6時、彼らは私の顔を拭いて、前後して私を正興病院と華陽二病院に送り、医者にまで詰問されました。「なぜこうしたの? 今になってやっと送って来たのですか! 人が死ぬかも知れないのに!」当時大勢の人が取り囲んで見ていました。
洗脳班に戻ったときは、すでに夜中の1時過ぎで、男性警官4人と、女性警官2人が来て私に付き添ってくれました。ある女性警官が私に「610があなたを殺して口を塞ごうとするので、署長が彼らに24時間私を守り、あなたから離れてはいけないと命じた」と教えてくれました。その後署長は「私がそこまで殴打されるとは思いもしなかったので、殺されないようにできるだけ私を保護する事しかできなかった」と私に伝えました。この善良な署長はその後、交通警察所に転任しました。
当時の私は、そのような状況で、殺されるのはいとも簡単でした。師父の保護のもと警察署から6人の警官が派遣され厳密に保護されました。そうでなければ、私は死んでいたでしょう。
更に不思議なのは、私はそこまでひどく殴られましたが、全過程において、私は痛みや苦しみを感じませんでした。慈悲なる師父が私の代わりに受けて下さいました。そうでなければ、そのひどい脳震盪、臓器損傷、内出血による巨大な痛みと傷害を、私は耐え抜くことができず生きることもできなかったでしょう。
それから、私は1週間食事ができず、口は腫れて3カ月間、開けることができませんでした。私がずっと名簿を出さず、確認をしなかったので、2003年5月30日夜7時、留置場に戻されました。留置場に着くと、私は吐血しました。刑務所の医者は問題が起きるのを恐れて、しょっちゅう監室に様子を見に来ました。
翌日の早朝、私は手錠、足かせをかけられて県の病院に送られましたが、医者は驚いて大声で叫びました。「あまりにも残忍だ! 人をここまで殴るとは!」
帰りには、お腹が更に大きくなって車に乗ることができず、彼らはやっと手錠を外し、私を押して更に強く押して、車の中に押し込みました。午後、激しい吐血が止まらず、再び県の漢医院に送られ、大小に包んだ薬を七つ受け取りましたが、私は意識がはっきりしており、人に会う度に「私は病気ではありません! これは洗脳班の人に殴られたのです」と言いました。私は始終守り抜いて薬を飲まず、拘置所で人に会う度に、私が洗脳班で遭遇したことを話し、頑張り抜いて師父の経文『真修』を暗誦しました。
師父の保護のもとで生きて牢獄を出る
2003年12月30日、私は3年半の判決を下され、川西女子刑務所に送られました。刑務所に着いてから、私の体はますます悪化し、吐血し、気を失って倒れ、全身が動かなくなりました。作業場で奴隷労働をする時に2回気を失って倒れたので、仕方なく私に奴隷労働をさせなくなりました。そして、いつでも私を山の上にある男性刑務所病院へ送って行って、病気を診てもらうように刑務所の警官に頼んでくれました。医者は「あなたの内臓はめちゃくちゃで、どっちがどっちか手に負えない、どうしてこうなったのですか?」と言いました。それで私は殴られた経過を話すと同時に、真相を伝えました。聴く人がいると話し、だんだん増えていきました。特に刑務所の警官の法輪大法への敵視と、私への冷たさが、次第に親切へと変わりはじめました。
毎回、男性刑務所病院に行くたびに、女子刑務所の大きな門を出ると、刑務所の警官が私の手錠と足かせを外すと、私が法輪大法の奇跡と素晴らしさ、そして大法は全国各地で盛んに広められた状況を話すのを進んで聴きました。家族がいつ来ても、いつも面会でき、物品も買えるようになりました。刑務所の警官らは、さらに刑務所の医者の話に従って、私を木製ベッドの上に横にさせ、毎日2回お湯で全身を温めてくれました。
ある昼さがり、ぼんやりしている中で師父が鉄の欄干の外で、私に「これ以上倒れてはいけない!」とおっしゃるのを見ました。私は本当に気を失って倒れる事が無くなりました。しかしその後、2回も夜9時に刑務所の休みの登録をする時に、私に重い風邪の症状が表れ、顔がまっ赤になり、どんなに呼ばれても目が覚めなかったので、それ以後、私の名前を点呼しなくなりました。しかし刑務所側はこの件で、私がいつか地面に倒れて二度と目覚めないかも知れないことを心配して、私を厳格な管理棟から1階に移しました。さらに刑務所の医者が刑期を尋ねて、病歴を持ち帰ってしっかり治療するように言い含めたので、刑務所側は私を2006年7月27日に繰り上げて出獄させました。
私は心の中で、この全ては師父の慈悲なる按排であると分かっていました。2004年5月、同修達が来て私を応援してくれました。同室のある女性の経済犯(彼女は毎週夫に迎えられ外泊できた)は私に、3日間連続して刑務所の外側を3、40人が囲んで、私に会う事を求めていたと教えてくれました。
2005年12月下旬のある日、息子が会いに来て、私に養老年金の加入を勧めました。私は心の中で「加入しない、共産党にお金を払い悪事を助長したくないよ! 私本人がまだ刑務所にいるのに、そんなことはできない」と思いました。私の面会を共にしていた監区長が「こっちに来てください。私があなたの写真を撮りますからね。あなたの息子さんが写真を持って帰ってから、手続きをしてくれますよ」と言いました。当日息子は私の写真を持って家に帰り、さっそく私の養老年金に加入しました。慈悲なる師父が弟子が不自由な体で、出獄した後、生活の基盤がない事を考慮し、予め弟子の為に養老年金を按排してくださったと、私には分かっていました。
師父は意気消沈していた私を救い出された
2007年3月のある朝、同県のA同修が坐禅する時、師父は彼女に「速く行って某某(私の名前)を救いなさい」とヒントを与えられました。A同修はすぐに出かけ、B、C夫婦同修を探し、Bは家で私の為に部屋を片付け、彼女とCは一緒に、私を迎えに来ました。私はとても意外だと感じ、行きたくありませんでした。A、C同修は自ら進んで私を助けて服を整えると、私を引っ張って家を出て、個人のミニバンに乗せました。安全の為に、またさらに3回乗り換え、やっとB、C同修の家に着きました。彼らの家には2つの部屋しかなく、自分達の部屋を私に譲って住ませ、彼らは片付けたばかりの雑貨を置いたそちらの部屋に住むことになりました。
午後、私達はすぐに学法を始めました。翌日、また他の同修に知らせ、2つのクラスに分けて交代で私と一緒に学法しました。B、C同修は私と一緒に煉功し、私は感動しました。
半月後、私は師父の全ての説法を一通り学び終えると、彼らは「明日の学法交流会に参加してから、あなたは家に帰っていいです」と言いました。
交流会では切磋し、交流以外に師父の説法と功を教えるビデオも見ました。帰りに、私に大きなかばんに、いっぱいの真相資料を準備し、私に必ず、毎週A同修の家の学法グループに行って学法し、『明慧週刊』をもらうようにと言ってくれました。
市にいる同修も私の家に来て、私を助けて迫害を暴き出す草稿を書き、更に私の為に大法書籍を揃え『轉法輪』の字を直す知らせと書体を探してくれました。私は深く感動しました。師父の慈悲とご加護の御恩に感謝いたします。身心は、大法の慈悲と同修達の暖かさの中に溶けていました。
私はすぐに、以前法を広めた時のやる気に戻り、近隣地域で十数個の学法グループと三つの資料点を作りました。その過程で、師父の教えに厳格に従って、遭遇した様々なトラブルや人間関係などの物事に対処しました。
師父は私が精進するように再び導かれた
2009年以降、我が県の責任者及びある資料を作成する同修が私に「これからは、それらの学法拠点に行って学法してはならず、私の家の学法拠点もなくすべきだ」と通知してきました。それは、私は本県で迫害の焦点であり、安全ではないと言う理由でした。そして何度もそれらの学法拠点の同修に、安全の為、みな私と連絡しないようにと伝えました。責任者のやり方は、私にとても大きな打撃を与えました。
私は責任者と対峙せず、行かないことにしました。私と連絡を取らなくてもいいのですが、私の家の学法拠点は絶対になくさず、どの同修が来て学法しても、私は歓迎することにしました。心では同修達が修めて向上さえすればそれで良い、私は修めてどうなろうがそれで良い、どうでもいいと思いました。心の鬱を解消する為に、私が法を広めたことがある県市によく行っては昔の同修を探し、以前の追憶に浸っていました。私は三つのことが全然よくできず、状態が悪くなりました。しかし、自分では変えることができず、どこに問題が生じたのかが分かりませんでした。
2014年7月、私を熟知しているある同修が、他の地域から退職してこちらへ移った同修を連れて私の家に来ました。この同修は法理がはっきりして、思考が敏捷で、誠意をもって私と話し合い、法理から多くの面で、私と切磋しながら交流しました。同修は私に「あなたの問題は『私は修めてどうなろうがそれで良い、どうでもいい』というところにあり、これは修めているようで修めていないことです! 師父があなたを済度し、あなたを救い、あなたを保護し、あなたの代わりに耐えていらっしゃるのは何の為ですか? あなたは胸に手を当てて自問してみてください。あなたは誰に申し訳が立ちますか? あなたはこの万古未曽有の大法修煉の機縁を大切にせず、自分と師父と衆生の縁を大切にせず、この長年の師父のあなたに対する行き届いた保護を大切にせず、あなたが精進し着実に修めなければ、師父に申し訳がなく、師父に背くことになります! これは本当に極めて厳粛な問題です。こんなに長年修煉して、どうして未だに魔性に動かされるのですか?」と言いました。
同修は続けて、「それではどうすれば良いでしょうか? 即ち決心を下して、精進し着実に修めることです。法を師とし、法をたくさん学び、法をよく学び、心を込めて法を学ぶことです。法で自分の一思一念、一言一行を指導し、これが正に精進し着実に修めることです。自然によくない状態を変えることができ、自然に向上できます。なぜなら師父はとっくにはっきりおっしゃいました。『法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです』 [2]」と言いました。
そうです、同修の話はどれほど良いでしょうか! 私は大切にし、自分を修め、法をたくさん学びよく学びます。法をたくさん学び、真剣に心がけて法を学ぶことを通じて、私の心は落ち着き、問題にぶつかっても、これ以上の人心が浮かばず、本当に法を師とし内に向けて探し、自分を修めるようになりました。正に師父がおっしゃった「心性が向上すれば、他のものも同時に向上しますが、」 [1]の通りでした。私と学法グループの同修達は確実に自分を修め、三つのことをとてもよく行っています。
これまで、私たち各学法グループの同修は、師父、大法の導きのもとで、しっかりと神へ回帰する道を歩んでいます。心が充実しており楽観的で向上しています。
心から師父の救い済度の洪恩に感謝申し上げます!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」