文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年2月27日】昨日の午後、同修Aさんと会って、法輪功迫害の真相を伝えて人を救うことに関して話をしました。私は人を救うことができないという戸惑い、そして自分が良くできていないだけでなく、同修に影響を与えてしまい、救われる人が減ってしまうと困惑していることを伝えました。
Aさんは「法を学び、正念を発することがよくできれば、人を救うことができます」と、言いました。
同修が話したことはとても道理にかなっていますが、ただ私の心のわだかまりはまだ解けていなかったのです。私は枠に縛られた感じがして、突破できませんでした。ある同修が私を見て「もっと心性を向上させる時が来たのではないですか」とため息をついた。
帰宅してからも、常に、心に響いていたのは「もっと心性を向上させる時が来たのではないですか」という言葉でした。自問自答してみました。「なぜ修煉したいのか? ただ健康な体になりたいだけなのか? それとも、人は苦しいもので、もっと自在になりたいからなのか? 神佛の世界には苦しみはなく、今苦しんでも将来は自在になれるのか? 」
この時、私は「奇門功法の場合は、決まった宇宙範囲を持っていないために、あちらこちらをさすらう仙人になります」[1]という師父の法を読んで、さすらう仙人を羨ましく思い、自分が道を修める人になれたらいいなと想像しました。その時、私の根本的な執着は、自分だけが得道して仙人になりたいということであると、はっと気づきました。師が法を正すことを手伝って衆生を救うことではないことに突然気がつきました。これは、明慧ネットの同修たちの交流の中で、「自己を修めることは、すべての衆生を救うことである」と言っていることに反しています。私自身の「自在」の中に衆生はいないのです。今の私は独修したいだけで、全体に協力したいとは思っていません。私心のために、自我のために修煉しているのであって、協力することは難しいと感じています。何かをする前に、すでに困難を恐れることが自分を抑え込んでいて、グループ活動やプロジェクトに参加したくないために「うまく協力できない」という言い訳をいつも使っています。
確かに、私は自分の枠から飛び出す時が来たと思います。
師父の慈悲なる救い済度に感謝致します! 同修たちの棒喝に感謝します!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
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