「迷信」も一種の信じること
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年3月11日】私は長い間、現代の変異した文化に影響され、「迷信」という二文字に偏見を抱き、マイナス的な意味を持つ言葉であると思っていました。 しかし、少し前に、師父の経文『精進要旨』の中の「迷信とは何か」について学法して、「迷信」という言葉に対する新たな理解を得ることができました。

 師父は経文の中で、「迷信という二文字の言っていることは、悪いことではないのです。軍人が規律を迷信しなければ、戦闘力はありません。学生が学校と先生を迷信しなければ、知識を得られません。子供が自分の親を迷信しなければ、しつけることはできません。人々が自分の仕事を迷信しなければ、仕事をきちんとこなすことができません。人類に信仰がなければ道徳の規範はなくなり、それによって人心に善なる念がなくなり、邪念に占拠されます」 [1]とおっしゃられました。

 私は、迷信という二文字は必ずしもマイナス的な意味ではなく、大事なのは何を信じるかということだと悟りました。

 昨今の世間の情勢は一時的に混乱しているように見えますが、同修の交流文章も異なる観点を現わしています。個人の悟りでは。師父以外この世間の真相を知ることのできる人はいません。どの生命であれ心の中の迷いを解かすことができず、迷いの中で真理に対する信仰を堅持することができれば、必ず希望が現われるのです!

 修煉者にとって言えば、理解できない部分があり、一時的に理解できなくても構わないのですが、私たちの知恵は根本から限られており、師父が言われたこと、そして按排された一切を全部理解できるのでしょうか? あまり適切でない例ではありますが、戦場にいる兵士が号令を聞いた時、司令官の真意を知ることは難しいかもしれません。しかし兵士として、司令官の命令に従うのは職務なのです。

 私は、上記の言葉を、まだ心の中で疑問に思っている同修の手助けになることを希望します。自分の「困惑」に執着しないように、困惑しているとき、智恵が不足していることの現われであり、もし、心を静めて法を学ぶことができれば、多くの問題を自ずと解決することができます。

 最後に師父の詩『洪吟二』[2] を以て同修と共に勉強したいと思います

 精進し正しく悟る

 学法を怠らざれば、変化は其の中に在り
 堅信して動かざれば、正果になり蓮が成る

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「迷信とは何か」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「精進し正しく悟る」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/6/421685.html)
 
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