求める心を放下してから学法しましょう
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文/海外の大法弟子 

 【明慧日本2021年3月31日】私の学法の状態は良かったり悪かったりしています。心が静かなときは、学ぶスピードも速いのですが、そのような状態は長くは続かず、その後、突然どのように読んでも内容が心に入らず、妨害が大きくて、上の空で読むこともしばしばありました。

 ある日、学法の前に私は緊張をほぐして心をリラックスさせ、読む量を気にせず、法理を見ようとする求める心を放下してから学法し始めました。すると、まるで師父が私の目の前で話されているかのように、その親切で、自然で、平易な言葉の一つ一つが私の心に浸透してきました。こうして、私の法に対する理解、少なくとも表面的な意味に対する理解がとても速くなりました。反対に、妨害を受けている時の私は、法の表面的な意味すら理解できず、読み直してもよく理解できませんでした。

 上記の良い状態が現れたことをきっかけに、私は学法するときに心を静めることができず、妨害を受けてしまう根本的な原因が何なのかを考え、それが一種の思想業力だと分かりました。というのも、私には「これが大法だ」という観念があり、同修たちが交流文章でも「大法はとても神聖で厳粛なものだ」といつも言っているので、無意識のうちに、私は大法が厳格で深遠なものであり、注意深く読み、一生懸命学ぶべきだと考えていました。しかし、「一生懸命」になればなるほど何も学べなくなり、甚だしきに至っては大法の一文ですら覚えられませんでした。

 今になって初めて、これが求める心だと気付きました。師父は『轉法輪』の文末にて、「『轉法輪』は、文章の表面上においてきらびやかではありません。甚だしきに至っては、現代の文法に符合しないこともあります」と述べられています。法を学ぶ度にこの文章を読んでいましたが、潜在意識において、「きらびやかではない」、「現代の文法に符合しない」といった言葉は、師父が仕方なく使われたのであって、書き言葉から話し言葉への格下げに過ぎないと思い、他の側面を考えたことがありませんでした。

 師父はこのようにおっしゃっています。「知識人が大法を学ぶにあたっては、ある最も突出した問題に注意すべきです。つまり、普通の常人が理論的な著作を学習する方法で学んで、即応する名人語録を選んで、自らの行動に照らし合わせるように学んでいて、これは修煉者の向上を阻害しているのです。また一部の者は、大法に非常に深い内涵があり、異なる次元の修煉を指導できるレベルの高いものが含まれていると聞いて、一字一字を詮索していましたが、結局、何も見つかりませんでした」 [2]。「覚えておくべきことは、求めずともおのずから得る、ということです」 [2]

 この経文もずいぶん前に学びましたが、残念ながらまだよく理解できていませんでした。今まで、これは師父が他人のことを言われているのであって、自分がこのような明らかな間違いを犯すはずがないと思っていましたが、自分も人間の様々な観念に染まり、このような思想業力を形成してきたことを忘れていました。しかし、これらの思想業力を取り除いてはじめて大法に同化することができ、はじめて修煉していると言えます。師父の説法は修煉を指導するためのものであり、理論や知識ではなく、他人を正すために用いるものでもありません。法に照らし合わせて着実に自分の問題を見つけ、苦を嘗めながらそれを取り除き、はじめて向上することができます。

 深遠な法理を見たいという求める心が長い間、私の学法を妨害してきました。きらびやかさ、または詩や絵のような境地がある言葉は大法ではありません。修煉者にとって、法を得ることがもっとも重要です。実際、心をリラックスさせ、自分は知識人であるとか高い地位にいるといった常人の観念を放下し、深遠な法理を得たい、または任務を遂行するといった気持ちを放下すれば、もしかすると大法の真の内涵がもっと見えやすくなるかもしれません。

 人間社会でいくら高い地位を手に入れても、いくら高い技術を身につけても、どんな肩書きを持っていても、それは所詮人間です。円満成就したければ、師父のおっしゃる通りにしなければなりません。神々でさえ跪いて法を聴かなければならず、私たちはなおさら大法がどうあるべきかを独善的に考えてはなりません。常人の観念を放下して、はじめて法を得ることができます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法を学ぶ」

【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/12/421998.html)
 
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