すべての念と考えを修めることはとても大事である
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年4月14日】私は2010年から法輪大法の修煉を始め、今年59歳です。11年の修煉を経て、数々の魔難と難関を乗り越えてきました。

 初めから真剣に学法をしていたので、素早く向上することができました。私が本を読む時、一つ一つの法に対して固く信じることができたのは、師父のご加持だと思います。法を得ることが遅かった分、しっかり法を学ばなければ人生は枯れてしまい、法は私の人生を永続させる源のように感じました。

 現実の迷いの中で、自身の置かれた苦境は見えませんが、学法を通じて、修煉者の道理は人間の道理と相反していることが分かりました。修煉者にとって苦しみに耐えるだけではなく、苦の中の苦にも耐えられ、忍び難い事までを耐え忍ぶことができ、さらに苦しみを楽しみと見做すことができるのです。修煉する中で、すべての念と考えがとても大事なことであると分かってきました。

 以下は、私が日常生活の中で遭遇したいくつかの出来事で、同修の皆さんと交流させていただきます。

 一、家庭のトラブルの中で内に向けて探す

 ある日、私が餃子を作っていた時、夫から親戚に会いに田舎の実家に行くので、昼には帰れないと電話がありました。義理の弟夫婦も同行していると知り、私に舅の面倒を見させ、一緒に連れて行かないなんてと、思えば思うほど面白くなくなり、餃子も作りたくなくなりました。

 しばらく腹を立てていましたが、ふと自分は修煉者なのに、常人と同じではないかと気づきました。嫉妬心や怨む心、人にバカにされたくない心など、たくさんの人心が出てきました。私はすぐに自分を正し、普段よりも多めに餃子を作っておきました。私たちが食べ終わった頃、夫は帰ってきました。

 「お帰りなさい。ちょっと休んで、いま餃子を煮てあげるから」と言いましたが、夫は機嫌が悪そうでした。「遠くて、車に乗って疲れたのでしょう。餃子をすぐ持って来る」とやさしく言いました。以前なら、夫が帰って来ても無口になったり、物を荒く置いたりするだけでも、私が怒って夫婦喧嘩になることもしばしばありました。

 小さな出来事ですが、私は自身が持っている元々の性格や物事を考える習慣などを含めて、人心に触れることがあれば、それを修めるべきだと思うようになりました。修煉の過程で、これらはみな向上する貴重なチャンスであり、そして、それらを見つけ、自ら取り除いた時には、苦境にあっても希望が見えてくるのです。

 ある日の夜、私は同修の家で学法をして9時過ぎに帰って来ました。夫は鍵を車庫に忘れ、私に「10回ぐらい電話をしても出なかった」と、酒を飲みながら怒りました。私が「携帯電話を持っていなかった」と説明しても、夫は信じようともせず、私に暴力を振るおうとしました。私は師父の法「強辯に遇えば争論す勿れ 内に向けて因を求むは修煉 釈明しようとすればするほど心重し 坦懐(たんかい)にて執着無ければ知見出づ」 [1] を思い出し、心が動じませんでした。

 私が車庫を開けて車を入れると、夫は私の車を蹴りました。私は怖くもなく、師父が学法して終わったばかりの私の心性を向上させてくださっていると思いました。当時、夫が狂ったかのようになり、私は急いで車を降りて2階へ上りました。階段を上る時、私は「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と正法の口訣を唱えながら、夫が怒らないようにと師父にお願いしました。家に入った後、夫はまた私を蹴って、ぶつぶつと言いながら自分の部屋に入りました。しばらくして、私がコップ一杯の水を持って夫の部屋に行き、夫は眠りにつきました。

 このことを通して、私は修煉者の生活の中には偶然な事がないと分かりました。良い事も悪い事も、大きな事も小さな事も皆関を乗り越えるためです。以前なら、このようなことがあると、私は夫と喧嘩してしばらくの間回復しませんでしたが、今回の事で、すべての念と考えが法に符合していれば、乗り越えられない難関はないと分かりました。

 二、利益の前で淡泊になる

 夫の実家には8部屋ある家屋と2600平米ぐらい(四地)の土地があります。夫の両親には長男と次男の2人の子どもがいて、夫は長男です。姑が亡くなって財産を分与する時、通常なら、兄弟に半分ずつ分けるのが筋ですが、舅は事前に勝手に土地を次男に譲り、家屋を次男の名義にしました。

 私はそれを知り、とてもショックを受けました。長年来私たちが両親の世話をしていましたが、このような結果になるとは想像すらしませんでした。夫も不満を言い、私も自分の父親に聞きました。私にも納得し難い気持ちがありましたが、落ち着いて舅に尋ねました。結局、舅は夫が要らないと言ったので、分けてあげなかったと言いました。それを聞いた夫は激怒し、そんなことはないと否定しました。

 私は冷静になって「これは私に関係しているかもしれない。自分は修煉者だから」と考えるようにしました。師父は「時に、それが自分のものだと思い、他の人もあなたのものだと言ってくれても、実際はあなたのものではない場合があります」 [2] と語られました。私は夫に「昔の家を私たちにくれたとしても、そこで住むわけでもないし、どこにも持って行くことが出来ない。争わないで、放棄しましょう」と夫を説得しました。

 嫁である私がそう言うと、夫も何も言わなくなりました。何といっても親子ですし、兄弟だからです。この事で、私は師父が教えてくださった法理についてさらに悟り、修煉者として常人の中のものを求めず、考えもせず、すべての人心を取り除くことが修煉であると分かりました。

 善意を持って他人を理解することによって、厄介なトラブルも大きな魔難もすぐに解決することができます。その後、私は師父が私の包容力を拡大してくださったと感じました。自分の利益に陥り、常人の道理で物事を測ると、どう考えても自分が正しくて、他人が理不尽だと思い込んでしまいます。それはこの関をまだ突破していないのではないでしょうか? 表面的な良し悪しに陥らず、観念を変えて修煉者の正しい理で修めなければなりません。修煉者として、苦をなめることは業を返すことではありませんか? このように考えると、物事はうまくいくに違いありません。

 三、修煉する前後の変化

 法輪大法を修煉する前、私はしょっちゅう夫と喧嘩をして近所にも迷惑を掛け、110番の通報電話と120番の救急電話をかけたこともありました。夫婦喧嘩をすると、数日から半月、20日以上も互いに口を開くことなく、とても辛かったのです。離婚しようとか、夫が死ねばいいのにとか、良くない念がたくさんありましたが、今考えてみると、些細なことでとても恥ずかしく感じます。修煉していなかったら、誰でもその気が強く、負けず嫌いな心を変えることはできなかったと思います。しかし、大法を学んでから私はすっかり変わりました。

 師父は「われわれは、トラブルに直面した時、一歩引き下がれば世界が広々と開けると言っています。間違いなく違った世界が現われるのです」 [2] と語られました。執着心が現れた時には誰でも辛いのですが、私たちは修煉者である以上、これらの心を取り除くべきではありませんか? 大法を修煉する道は実に細いものですが、苦をもって楽とし、すべての念と考えを修めることができれば、私たちの道は明るくなり、着実になるのです。

 着実に修煉し、自らを厳しく要求し、それによって確実に変化し、トラブルに遇った時には人のことを優先に考え、どこにいても良い人になることにより、道徳基準の高い人になり、名利と情を漏れなく修めることができます。偶に良くない念頭が出てきても、ほとんど制御することができます。

 現在、近所の人は私が羨ましいと言う人もいます。家庭の雰囲気は睦まじく、子どもたちも親孝行をしてくれ、夫は家事に協力してくれます。修煉をしていなかったら、このような大きな変化もなければ、良い家庭環境もあるはずがありません。

 修煉して10年余りの間、師父のご加持の下で、癇癪持ちで利己的な私が、明るくて穏やかになり、そして人のために考えることができる大法修煉者になりました。師父への感謝の気持ちは言葉では言い表せません。

 法に符合していないところがあれば、ご指摘お願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/4/422901.html)
 
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