恨む心を除去する中で「忍の中に捨があり」を悟る
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2021年5月19日】「忍の中に捨があり、捨てることができることは、修煉の昇華です」 [1] 、「修煉は、錬磨の中でこそしなければなりません。常人の持っている七情六欲を放棄することができるかどうか、それらに対して淡々としていられるかどうかが問題です」 [2]と師父は説かれました。

 「ただひたすら我慢するだけで、捨てることができなければ、執着心を根絶することはできない、捨てることができてこそ、執着心は土壌を失った根っこのように頼れるところを失くして、はじめて除去できる」と私は悟りました。

 今まで、恨む心が出てくると、私は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです」 [3] を暗唱して、我慢すると、ほとんどの関を乗り越えられました。恨む心が無くなったと思ったりもします。しかし、大きい刺激を受けた時は、心性を守ることができなくなり恨む心を抑えることができません。その後、繰り返しそのようなことが起きて、自分の恨む心を全然除去していないと認めざるを得ない状況になってしまいます。

 一つ例をあげますと、2020年夏、部屋にエアコンを点けていましたが、夫はトイレの中で手を洗い、顔を洗い、何を洗ってもお湯の出る蛇口をひねります。ひねると湯沸かし器が点火されて、ガスが燃焼します。私は「あなたは寒いのですか? それとも暑いのですか? あなたは短パンを穿いていて、部屋にエアコンを点けながらお湯で洗い物をして、もったいないじゃないの」と言うと、夫は「どうしてこんなに多くのことに口を出すのか、君に関係ないだろう。好きだから、どうしてもお湯を使いたいのだ」と怒鳴りました。これ以上口を開くと喧嘩になってしまうから、我慢することを選びました。しかし怒りを抑えきれなくて、とうとう堪忍袋の緒が切れて「我が家の湯沸かし器はベランダにあるから、温水が出るまで時間がかかるということを、あなたも知っているよね。温水が出る前にとっくに手を洗い終わっているわ。そうすると、湯沸かし器を点けても結局、温水は使えないのではないの? 一日に何回も手を洗っているので、ガスを無駄に燃やすだけじゃないの」と言いました。夫は本当に怒って「ほっといてと言ったじゃないか。先も長くないから、無駄をしても大した浪費にはならないだろう」と言い返してきました。仕方がなく私は何も言わないで済ませました。

 こんな小さな揉め事が続いて、私はひたすら我慢するだけで、心の中の恨みは日に日に溜まりました。長く修煉しているので、発正念をする時には恨む心を除去するようにと思っていますが、どうして、その恨みを除去することができないのでしょうか? その根っこはどこにあるのでしょうか?

 ある日『精進要旨』の中の「漏れるところなし」を勉強して「忍の中に捨があり、捨てることができることは、修煉の昇華です」を読んだ時、天目で「捨」の文字がとても大きく見えて、とても目立ちました。師父は私に「捨」を悟らせておられるのだと分かりました。「漏れるところなし」は今までよく暗記した文章ですが、今まで文章の中の「忍」だけを重視して「捨」という文字の重みを無視してきて「捨」をやり遂げるための努力はなおさらしていませんでした。「捨」は大前提であり、「捨てる」ことができてこそ、はじめて本当の「忍」をやり遂げることができ、はじめて昇華し向上できると悟りました。これで、20年余りもの間に溜まった疑問が一挙に解けてきて、数々の「何故なのか?」にも答えられるようになりました。

 26年間修煉してきて、ようやくその法理を悟ったのはあまりにも遅いと思います。私は夫も含めて魔難を作ってくれたすべての人に感謝します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「漏れるところなし」
 [2] 李洪志師父の著作:『転法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」

 
(中国語://www.minghui.org/mh/articles/2021/5/8/424199.html)
 
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