「天目で見た」について
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文/米国の大法弟子   

 【明慧日本2021年5月29日】最近、ある子供弟子が今後の展開について予言したことについて、多くの議論がなされています。この話題について、私の考えを述べたいと思います。

 多くの修煉者にとって、天目に関することに興味を持つことはよくあることです。ある程度の悟りの境地に達する前に、非日常の「経験的な証拠」が欲しいと思うことは理解できます。しかし、それを真に受けてしまうと、かえって修煉の妨げになるような気がします。天目を見て何かをするというのは間違っていると思います。法の原則に基づいて修煉するのであって、天目に基づいて修煉するのではないからです。

 私は大法を修煉する前には、他の気功法を修行したりよく瞑想をしていました。その時は、私はそれを単なる幻覚だと思い、あまり気にしませんでした。気持ちよくてリラックスできましたが、誰にも明かしたことはありませんでした。

 しかし、大法の修煉を始めてからは、入定するのが難しくなりました。時折まだ天目で見ることができましたが、その光景は色鮮やかで鮮明で、それらはたいてい突然現れるのです。師が何かを悟らせるために、私が見られるように按排してくださったのだと感じました。しかし、自分の意志で、見たいときに見ることができなかったので、いつ見えるかを決めるのは師父だと感じました。

 初めて大法の静功を煉っていたとき、結印した手の上に何かが見え、それは天上世界での私の本来の姿かもしれないと感じました。それは私の心が大きく広がっていき、佛、道、神々のイメージに対する理解も大きく広がったのです。またある時には、大法の音楽を聴いている時に突然静寂に包まれ、「空を横いで立つ、巨きな佛」[1]のように、巨大な空間の中に師の姿が見えました。師が何人かの人に何かを話されているのを見て、私は自分が第三種の大法修煉者であると考えていたことがとても無意味なことだと気づきました。このように、私の天目は、ある考えを取り除き、またある問題についての間違った考えを正すのに役立ちました。

 私は、大法を修煉している妻と子供にしか天目のことを伝えていません。大法を修煉していない他の家族とは共有したいとは思いませんでした。

 法を暗記することに関する、ある記事を読んだことを思い出しました。その著者は、静寂の中で、暗記した法の各文字が、別の空間の古代の鍵型文字のように見えたと述べていました。

 前述の子供弟子の「誰がアメリカの大統領になるか」という予測については、私たちが見た天目に基づいてではなく、法の教えによって多くのことが理解できると思います。万事万物の存在と発展は、宇宙の法則に従っています。

 私たちは修煉者であり、過去に多くの厳しい教訓を学んできました。大法の修煉者として主導権を握るのではなく、一般の人々に期待をかけると、状況はたいてい悪い方向に向かってしまいます。私たちは、中国共産党の様々な指導者に期待しましたが、彼らは正しいことをして大法への迫害を終わらせても、迫害を継続したり、強化したりしました。また、トランプ氏に中国共産党の崩壊を期待しましたが、うまくいきませんでした。

 私たちが、法を正す時期の大法弟子として何をするかは、未来の人類のお手本になります。中国共産党や迫害を終わらせるために、常人に頼るのではなく、大法修煉者が達成しなければなりません。

 衆生は、私たちが成就して救いを与えてくれることを期待しています。この状況を変えるために、人間に頼ることができるでしょうか? もちろん、「人間が治めなければ天が治めます」[2]と期待する修煉者もいます。ここでも私たちは、自分たちが果たすべき役割を忘れてしまいました。

 私の理解では、私たち大法修煉者は、求められていることを行い、自分自身をよく修め、三つのことをよく行わなければなりません。私たちの主な任務は衆生を救うことであり、中国共産党を転覆させることではありません。中国共産党は、製鉄に使う石炭のようなものです。鋼(私たち修煉者)が鍛えられれば、石炭は役に立たないのです。私たちと中国共産党との関係はそのようなものではないでしょうか?

 ある人は、慧眼通を使って物事を見ることができると言いますが、それはもっとおかしいと思います。私たちの修煉レベルでは、どのレベルの天目を使うのかを選ぶことはできないと思います。異次元のものが見えても、どのレベルの天眼を使っているのか、どうやって知ることができるのでしょうか?

 「天国からの手紙」という記事について議論したところ、泣いてしまった人もいました。感傷的な内容だと感じました。三界の領域を超えたレベルに到達したとき、人が持つのは感情ではなく慈悲の心です。

 また、副元神からの干渉についての記事も連載されていました。そのような干渉を気にしている時点で、私たちは師父を十分に信頼していないのではないかと感じたので、読み終えることができませんでした。

 師父は常に私たちの修煉を見守ってくださっていると感じています。私たちがすべきことは、自分の修煉に細心の注意を払い、大法弟子としての条件を満たすことです。修煉中に開発された超能力に夢中になったり、見たことに惑わされたりしてはいけません。それは自分の現在のレベルを反映しているだけで、通常は非常に限られたものだからです。

 法の教えを基準にして自分を測るべきです。自分の限られた理解に固執している人は、師のこのような教えに注意を払うべきです。

 師父は「あるいは悟りを開いた人は自分の認識こそ正しいと思い、極端な場合は、うぬぼれて自分が大法を超えているとさえ思ったりしたら、その時点で、あなたはすでに堕ち始め、危うくなり、だんだん駄目になっていきます。そうなった時は、修煉が無駄になるので、本当に厄介なことになります。下手をすると堕ちていき、修煉を台なしにしてしまいます」[2]と説かれました。

 悟りを開いた人でも、自分の理解が絶対に正しいとは思いません。ましてや修煉中の人はなおさらです。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「大覚」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/15/422057.html)
 
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