文/安徽省の大法弟子 木子
【明慧日本2021年6月3日】私は1997年から法輪大法を学び始め、今年58歳になります。私には一人娘がいます。1999年7月20日以前、夜家族がいない時には、私は娘を連れて煉功場に行き『轉法輪』を読んでいました。当時8歳の娘は、大法に出会いましたが正式には修煉していませんでした。
大人になった娘は、中国共産党(以下、中共)の大法弟子に対する残酷な迫害を目の当たりにしてからは、徐々に大法から離れてしまいましたが、慈悲なる師父はずっと娘を見守ってくださいました。娘も正義の立場に立って、大法弟子を助けたりしていましたが、結婚後は、娘はどっぷりと常人のように過ごしていたのです。ある日、私は娘に「大法はこんなにも素晴らしいのに、煉らないの」と聞くと、「煉らないよ。私は楽な生活を過ごしたいから」と答えました。
2018年8月25日、娘は仕事から帰ってきて、しゃがみ込んで起きあがれなくなりました。娘の顔は青白く、血色がまったくありませんでした。最初は、娘が風邪を引いて、毎日薬を飲んでいたので少し休んだら大丈夫だろうと思い、ソファーに連れて行って休ませました。しかし、娘の呼吸は次第に荒くなって呼吸困難に陥り、何かおかしいと感じました。
私は娘に、「直ぐ師父に助けていただけるようにお願いして!」と言いました。「師父、私を救ってください! 法輪大法は素晴らしい!」と娘は精一杯の声を出して言いました。私と夫は娘を病院へ連れて行こうとしましたが、娘は「とても疲れた。一晩寝たら、治ると思う」と言いました。
翌日、娘の状態は前日と変わらなかったので、私は夫に「娘は煉功者だと思う」と聞いてみました。夫は「いや」と答えました。私は娘に「お父さんと病院へ行きなさい」と言うと、「行っても意味がない。病院へ行くと、二度と帰れなくなるかもしれない。病院は私の病気を治せない!」と言いました。
8月26日、夫は娘を病院へ連れて行きました。検査の結果、正常の人の血小板数は300単位(SI単位)なのに、娘は2単位(SI単位)しかなかったのです。院長は医者に、「この患者はいつ死ぬかわからない状態です。このような患者はいままで回復した例がありません」と言いました。院長は私たちに、すぐに病院に移るためのお金を用意するように言いました。そして、院長は救急車を呼び、自ら医療スタッフと一緒に救急車に乗って、娘を省立病院まで搬送してくれました。
当日の夜、娘は省立病院のICUに入院しました。私は娘に「師父に助けを求めて。忘れないで!」と言いました。突然の事態に、修煉をしていない夫は頭が真っ白になっているようでした。私は「怖がらないで。師父は私たちを見守ってくださいます」と話しました。
その直後、医師から娘の危篤通知が出され、私たち家族に帰らないように言いました。ICUの外にある仮設ベッドが人で埋まっているのを見て、私たちは3歳の孫を連れて1階の受付の前にある椅子に行って休むことにしました。孫が夫に抱かれて寝ている姿を見て、集中治療室にいる娘のことを考え、「早く横になれ」と何度も促す夫の疲れた目を見て、私はどうしても横になって眠ることはできませんでした。
娘が子供を産んでからは、婿は当局が大法弟子を迫害することに協力していました。娘が子供を産んで帰宅すると、私たち親子が電話で話したことは婿に録音されていました。娘が子供に大法の歌を歌っているところも、婿に録音されました。婿はその録音を利用して、娘に離婚を迫りました。婿は、娘が子供を産んでまだ十数日で、帝王切開の傷口がまだ出血しているのを無視して、娘をベッドから床に突き落とし、赤ん坊を娘に放り投げたり、娘と赤ん坊に向かって「出て行け!」と怒鳴りました。娘が赤ん坊を連れて行かないと、婿は赤ん坊を頭上に持ち上げて落とそうとしました。そのため、夜中の12時、雷が鳴り響き土砂降りの雨の中、私たち夫婦は娘と赤ん坊を連れて家に戻りました。
娘が法から離れた後の数々の悲劇を考えると、私は「娘がどのようにすれば、この生死の関を乗り越えられるのだろうか? 師父に見捨てられてしまうのではないだろうか」と心配しました。
娘がICUに入ってから私たちを待ち受けていたのは、「17病床(娘の病床)のご家族はどこですか」、「17病床のご家族、お支払いお願いします」などの呼び出しと、危篤通知書や各種治療のサインばかりでした。
以下は、娘が退院して帰宅した後、ICUで経験した一連の出来事(回復記録)を娘が書いたものです。
夜、私はICUに入りました。家族も入れない場所で、すべての私物も一切持ち込み禁止です。私は1人でベッドに横たわり、周りが真っ暗だと感じました。夜中に息が苦しくなり、看護師が採血しに来ましたが、血管からは空気しか吸い出せませんでした。何度やっても同じなので、医者も「この人はもう血がないから諦めよう」と言いました。
この時、私は気が動転し、もう私は助からないのだ。まだ死にたくないと思い、そこで法輪大法の師父を思い出しました。「師父にはきっと私を救う方法がある」と考えながら気が遠くなっていきました。
(注釈:立ち合い診察を経て、娘は甲状腺機能亢進症によって血小板が減少し、長期の服薬による急性肝不全だと診断されました。立ち合い診察しに来た各科の医者はみんな、娘のことを「奇跡が起こる以外、いつでも亡くなるリスクがあります」と私たち夫婦に話しました。しかし、私たちは「必ず奇跡は起きます! 私たちは信仰があり、師父が見守ってくださっています」と医者に話しました)
最初4回の血漿置換は全く効果がなく、医者は毎日両親に「娘さんはこの世を去るリスクが常にあるので、覚悟してください」と伝えました。12日目の夜、母が私の様子を見に来て「命は輪廻転生する」と話し、「子供に会いたい?」と尋ねました。私は生きる希望を捨てたくなかったので、「会いたくない」と答えました。しかし、周りの病床を見渡すと、すべての患者が透明の箱に入っていました。私は慈悲で偉大なる師父は、必ず私を救える方法があると堅く信じていました。
私は絶えず師父に「師父、私は間違えていました。本当に間違ったのです! 自分を常人と混同し、常人の情につられて修煉者がやってはいけない多くの過ちを犯し、多くの徳を失いました。人は徳がないと生きられないのでしょうか? ただただこの生涯での後悔は、真面目に修煉できなかったことです。関を乗り越えられなかったのではなく、大法に近づいたのに、大法の門に入らなかったので、とても悔しいです。師父、どうか私に最後のチャンスをください。必ず良く修煉します。子供弟子とともに修煉の道で確実に修煉し、決して過ちを犯さないようにします」と懺悔しました。
ついに5回目の血漿置換が終わると(医師はこれが最後と話した)、看護士が「17病床の血小板値が上がりました! 本日30単位になりました!」と叫び、ICUの医者たちと看護師たちはみんな興奮しました。私は師父が助けてくださったのだとわかり、心の中で師父に感謝しました。
同時に、超音波検査で私の胸腔と心臓にあった水は血水で、自力で吸収するのは困難なため、外へ出すように医師は話していました。胸腔から吸引する際、私の血中酸素が下がり始めたため、呼吸困難になり、更には四肢が痙攣して失禁し、命が尽きた感覚がしました。
その時私は、いまここで口に出して言わないと、もうチャンスはないと思い、周りで忙しくしている医者や看護師がいるにも関わらず、全身の力を振り絞って「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい! 李洪志師父、どうか私を助けてください! 師父には必ず方法があるはずです!」と叫びました。
私の体に呼吸器と尿カテーテルがつけられました。どのぐらい時間が経ったのかわかりませんが、私は再び目を開けることができ、もう一度この世界を目の当たりにすることができました。再度命をくださった師父に、感謝で胸がいっぱいになりました。
その後、看護師が輸血に来た際、私に「どこでそのような言葉を知ったの?」と聞かれたので、私は「小さいころ、知り合いから法輪功は人を救えると聞いていたからです。それは本当でした!」と答えました。
最後に心臓の血水吸引の時、私は畳んだ布団にもたれ、大きな雷音(その日は晴れだったと後で知った)を聞きました。その時私は、「もう死ななくて済む、師父が守ってくださった」と分かりました。そして、家に帰って早く煉功したいとも思いました。16日目にはICUから出ることができ、19日目には退院することができたのです。
以上は娘が書いた、ICUで経験した一連の出来事です。
命を救ってくださった師父に感謝を申し上げます。娘に再び命を与えてくださって感謝を申し上げます! 現在、私たち親子は修煉の道で助け合い、衆生を救う道で協力し合って役目を果たしています。