文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年7月24日】以前から私は、同修の間で、互いに贈り物をすることについての問題があり、伝えたいと思っていました。私たちの地元の状況を見ると、この問題はますます悪化しているようです。このような現象から、いくつかの疑問が生じています。今後、この分野での不必要な損失やトラブルを避けるために、修煉者と共有したり議論することができるように書き出してみます。
何年も前、私は技術的な部分を担当していたので、プリンターやコンピューターなどの問題を解決するために、修煉者をよく助けていました。そのため、同修たちは技術者への感謝の気持ちを伝えるには、「ありがとう」と言う言葉だけでは足りず、果物やお菓子などの食べ物や物資を贈らなければならないと常々思っていました。
私はそれを断る時もあれば、断れないときもあります。中には本当に強気な同修がいて、何があっても突き返すことはできないので、どうしても受け入れざるを得ないのです。 一番印象に残っているのは、田舎に行って新唐人テレビのアンテナをセッティングに行った時です。帰ってくると、その同修がお米を一袋あげたいと主張したのです。断って押し合っている間に、車は発進し、その同修は、すでに動いている車にお米を投げ込んだのです。私はそれを取らなければならなかったのです。帰り道、本当に良い気分ではありませんでした。
数日前、私たちの地域で同修が大規模に連行されたという事件がありました。 もちろん、いろいろな理由があるでしょうが、問題の一つにお互いに贈り物をする時の問題があると見ました。
連行された修煉者の1人はとても精進されていて、以前は多くの修煉者が彼女のところに行って交流していました。行った同修は必ず何かを持って行かなければならず、まるで同修のところに、何も持っていかないのは、恥ずかしいと言わんばかりで、修煉において非常に神聖なものを完全に常人化していました。
些細なことですが、彼女の家に行く時プレゼントを持って行くのが当たり前になっています。これでは、同修を危険にさらしているだけではないでしょうか。 今回、協調人が警官に連行されたのは、何か理由があると思います。これは修煉の大きな漏れではないでしょうか?
さらに言えば、与えるばかりで受け取らない人もいます。常人の間では、礼儀や互助についても語られています。あなたが私に贈り物をしたら、私はあなたにお返しをしなければなりません。これは、人間としての最も基本的なエチケットです。一歩譲って、お互いにプレゼントを受け取ったとしても、それは普通の人の間で起きていることです。
修煉者の間で物事を常人化する必要はありません。修煉者の間は聖なる縁であり、この世に来る前から、師父に手伝い法を正す時、お互いに助け合うことを誓ったのではないでしょうか。友好を深めるために努力する必要はありません。私たちは同じ法門の弟子であり、親戚よりも近い存在ではないでしょうか。 あなたが私に贈り物をして、私があなたに贈り物をする、何て時間を無駄にしていることでしょう。
師父は「返修と借功」の一節を説かれたときに、この例を挙げていました。「だんだんとちょっとした記念品を受け取るようになり、そのうち大きな物までもらうようになり、しまいにはくれるものが少ないと承知しなくなります」[1]
このような長期的にお互いに贈り物をすることは、同修の執着心を助長する原因になっているのではないしょうか?
実際仲間の同修は、何も与えずにお互いに助け合っています。同修たちは、純粋な心でお互いに助け合い、修煉し、共に精進します。法に基づいて向上するのが一番です。 大法から、私たちがすることは、すべては私たち自身のためだと理解しています。師父が与えてくださるものは最高のものであり、それは金銀と交換できないものであり、それは宇宙の永遠の強大な威徳です。
ここでは、同修たちに、贈り物をすることについて真剣に考え、お互いの成長を考えなければならないことを伝えています。修煉者の間で、物事を常人化する必要はありません。
以上は、私自身のちょっとした認識ですので、適当でない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』