自分の威徳を気に掛けるのも一種の執着心です
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年7月22日】私は、あることに気づいています。自分の威徳を非常に気に掛ける修煉者がいます。三つのことをしたり、同修を助けたりするのは威徳を積むため、自分の威徳を他の同修に分けられるのが嫌な修煉者もいて、相手の威徳が自分より多くなるのを防止するため、相手に助けの手を差し伸べない修煉者もいます。以上の考え方とやり方は、大法の教えから外れていると思います。修煉と言えば「今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」。(『精進要旨』「仏性に漏れなし」)

 自分の威徳を分けられるのが嫌なため、経験の浅い同修と一緒に真相を伝えることを嫌がる修煉者もいます。同修・AさんとBさんは、対面で真相を伝えた経験がある「熟練者」で、数日間、AさんとBさんがどのように真相を伝えているかを学ぶため、私と同修・Cさんは、AさんとBさんと一緒に出掛けました。私とCさんは常人に話しかける勇気がなくて、ただ観察し発正念をしました。数日後、Aさんは「もし4人とも口を開いて真相を伝えることができれば良いのに、このように『三退』した人数を4人で割ると、私に当たる分はぐっと少なくなるのよ」と言いました。さらに2日後、Bさんはある常人に「三退」を勧めることに成功した後、われわれ3人に対して厳粛に「この人は私によって救われたの、私の世界の衆生ですから、あなたたち3人には関係ない」と宣言しました。Bさんの威徳を分けることなど、私は考えもしませんでした。

 経験豊富な修煉者の指導と実演は、新たに参加した修煉者にとって非常に役立ちます。例えば、どのように声をかけ、話題に入り、人の執着に沿って話すかなどです。真相を話せるようになるまで初心者を指導することは、その威德は非常に大きいと思います。

 明慧ネットからこんなことを知りました。修煉者・Eさんはある団地で真相を伝えると、その団地に住む同修・Fさんが不満に思い、自分が救うべき人がEさんによって救われ、Eさんは自分の威德を奪ったと思ったからです。誰が真相を伝えたとしても、結局、その衆生は師父によって救われるのではありませんか? 修煉者である私たちは今も師父に頼っているのです。何を争う必要がありますか?

 同修・Gさんは私にこんなことを話しました。ある日、Gさんは2人の同修と資料を配布するために電動三輪車で出発しました。目的地に着くと、Gさんは早くも三輪車から降りて自分の分を配布し、2人が三輪車から降りる気配がないのを見て、深く考えずにその2人分の資料も配りました。結果、2人は怒り「なぜ私たちの分まで配ったのか、あなたは大法の素晴らしさではなく自分の有能さだけを証明しているではないか」と言いました。Gさんは、2人が威德を奪われたのが嫌でそう言ったと思っているようです。

 同修・Hさんが大法の活動を企画し、多くの同修が協力していました。しかし、参加せず「威徳は全部Hさんのものになるのではないか」と冷たい言葉を投げかけてくる人もいます。これは、足を引っ張ることではありませんか?」

 ある日、私たち4人は2グループに分かれて法輪功迫害の真相を伝えました。道路の向こう側にいた2人が突然喧嘩を始めたので、私たちは急いで駆けつけました。1人が「これからは、三退のリストを私に送らないでください、私もあなたの事に関わらない」とぷんぷんして言いました。私は驚きました。地元では、特に中高年の同修にインターネットを使える人が少ないのです。この同修は、三退のリストをアップロードすることを武器にして同修を脅迫しています。これは、衆生を救い済度することを損なう他ありません。

 2023年の年末、同修・Iさんが書いた原稿を整理して、明慧ネットに投稿するよう手伝っていました。Iさんが書いた内容はバラバラで、まとまりがありませんでした。私は自分の持っていた素材を加えて一つの記事に書き直し、後日「明慧周刊」に掲載されました。Iさんは私に「掲載された記事は誰のものになるのか」と尋ねました。その問題について考えたこともなく、少し戸惑いました。「署名は『中国の大法弟子』ですから、あなたのものになっても、私のものになっても、どちらも大法を実証することに変わりはないのではないだろうか」と答えました。後で考えてみると、Iさんはおそらく威徳が誰のものになるかを気にしていたのかもしれないと思いました。

 大法弟子は一丸であり、師を助けて衆生を救うことは私たち共通の責任です。協力して完遂すれば、自然と威徳があります。誰にどれだけの威徳をつけるかは、師父の法身が常にそばにいてくださり、他の神々も大法弟子の言行を見ています。威徳を気にすること、威徳のために行動することは執着です。他人の威徳が大きいことに嫉妬して、他人に自分の威徳を奪われることを恐れるなど、私心、嫉妬心、求める心をすべて捨てるべきです。

 「心性の高さは功の高さ」(『轉法輪』)。このような状況を書いて、同修たちに注意を促したいと思います。

 (編集責任者:李明)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/4/19/474841.html)
 
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