文/中国河北省の大法弟子 惜縁
【明慧日本2024年6月20日】私が法輪大法の修煉を始めたのは2008年です。その前までは中国共産党がでっち上げた虚言や中傷の影響を受けていたので、法輪大法に対して反感を持っていました。しかし、夫の正念に満ちた行動により、私は徐々に中国共産党の嘘を認識し、法輪功が迫害されている事実を理解できるようになり、最終的には法輪大法の修煉を始めることにしました。
そして、『轉法輪』を真心を込めて読んだ後、私は深く感動しました。この本は生命、世界、宇宙、神仏、得と失、因果などに対する私の理解を根底から覆しました。
私の世界観は完全に変わりました。振り返ってみると、今までの人生は本当に無知でした。利益、地位、名声を守る中で多くの悪いことをしており、多くの業力を作りました。物質的な利益を得たとしても、本当の喜びや幸せを得ることはなく、苦しいとか、疲れていると感じていました。
ところが『轉法輪』の中で、失と得、因果の理論、人生の本当の意味を理解してからは、私の心はかつてないほど明るくなって、安心と幸せを感じました。
修煉を始めてから、残酷な迫害の中でも、正しい信念を持ち続ける同修たちに出会う機会がありました。そのグループの一員になれたことに非常に誇りに思います!
師父は、『轉法輪法解』「北京『轉法輪』出版式典での説法」の中で、「我々の法輪大法のところは浄土だと私は敢えて言います。ここでは人と人との間でどういう心を持っているでしょうか? 皆さんはすべて互いに助け合っています。法輪大法の学習者が集まる時、どんな様子でしょうか? 広州の講習会では、お金がない学習者に、皆さんが百元百元と持ち寄って彼を助けていたのです。他の功派では見ることはできないのですが、私たちのところではこのように互いに助け合うことはいくらでもあり、極めて極めて当たり前の現象です。これは浄土と言えるのではありませんか」と説かれました。私は、これに深い感銘を受けました。
修煉してからの十数年の間、私と夫は何度も迫害を受けました。不当な判決を受けて服役し、安定した仕事も失いました。
しかし、善悪の選択、そして生死の瞬間に直面するたびに、私は固い信念を貫きました。一つは、自分の行いが正しいことと信じていたので、信念が私に勇気を与えたのです。もう一つは、尊敬すべき同修たちが私を無私に助けてくれており、私を伴って難局を乗り越えることができたのです。
1、「生死を共にした」
同修のAさんと私は同い年で、十数年の付き合いです。修煉の道で私に最も大きな助けを与えてくれたのは彼女でした。私たちは地元で立ち上げたプロジェクトに参加したことで知り合いました。真剣に何事にも惜しみなく尽くす性格の私たちは、非常に息が合い、プロジェクトの研究と推進に大きく貢献しました。
ある時、私と夫は同時に連行されました。警察は私が修煉していることを知らず、私を連行したのは、私を利用して夫に妥協させ、彼らに協力させるためでした。ちょうどそのころ、娘は大学入試を控えており、親の支えが必要な時でした。迫害に加わった警察は、「娘を大学に入れないようにして、一生あなたたち夫婦を恨むようにしたい!」と言いました。警察は調査協力を理由に、私を不当に30日間拘束してから釈放しました。
私と夫が連行された後、Aさんは大きなリスクを抱えても私の娘と連絡を取り、娘の面倒を見ました。私が家に戻ると、Aさんは私と一緒に警察に行って、夫の釈放を求めました。当時の厳しい迫害の状況の下、Aさんは大きなプレッシャーとリスクを冒してでも、私を応援しました。私の夫も、他の迫害されている同修を救出するために連行されたのでした。
修煉を始めたばかりの私は、何をどうすればいいのかが分からず、不安でいっぱいでした。Aさんもこのような状況は初めてで、何をすべきか分からない中、私が困っている時はいつも、「焦らないでね、解決策が見つかりますから」と励ましてくれました。彼女は仕事が忙しい中でも、時間を見つけては私と一緒に学法し、交流し、励まし合い、解決策を探してくれました。
「『刑法』第三百条の内容が分からない」と私が言った時、翌日、Aさんは仕事帰りに本屋で『刑法』の本を買ってきてくれました。また、弁護士を探したり、私と一緒に公安局、裁判所を訪れて案件の進行状況を確認したり、私の夫が無罪であることを訴え、法に則った対応を求めました。
Aさんは事後、私にこう言いました。「それらの部門を訪れる時は、実は自分も怖かったです。しかし相手のために思いやるという大法の教えを思い出して、同修が困っている時は支援するべきと分かったので、乗り越えてきました」
公安分局に行った時のことを覚えています。副局長は非常に凶暴な態度で、私の夫を連行した時、中共による迫害の真実が書かれたステッカーを手に持ってこう言いました。「誰がこれを貼ったのか」「もしあなたがこの件に関与していると判明したら、あなたにも責任が及ぶぞ」と、それを聞いた私は非常に緊張しました。
私は、公安局を出た後は気分が沈んでしまっており、Aさんに「私たちが彼女(副局長)に会ったのは、真相を伝えて、迫害に加わらないように勧告したいからです。でも、これはとても難しいと感じています。もう行きたくないのです。でも、これでいいでしょうか…」と相談しました。するとAさんは、「きっと大丈夫ですよ。できることをしましょうね。無理はしないで」と励ましてくれました。
困難な時や、上手くいかない時も、Aさんは決して私を責めたり、圧力をかけたりはしませんでした。ただそばにいて、私が落ち込んだ気持ちから立ち直って、引き続きやるべきことをやるように、静かに支えてくれていました。
その後、夫が不当な判決を受け、刑務所に収監されました。Aさんは、可能な時にはよく私に伴って面会に行ってくれました。面会にも、多くの妨害に遭遇しました。「転向」しない法輪功学習者は、面会の資格がない、家族が修煉者であれば面会できない、などの理由で面会申請が拒否されることがありました。
私と同修たちは2、3時間も運転して刑務所に行きますが、理不尽に拒否されることが多かったです。しかし、Aさんは勇敢に刑務所の責任者に会い、私の面会権を主張しました。ある日、午前中に着いたのですが、午後になってようやく面会が許可されました。Aさんは午後から仕事に戻らなければならなかったのですが、昼食も食べずに刑務所から直接職場に戻りました。
数年後、真相資料を配布したために私も連行されました。Aさんはすぐに私の生活費として看守所に送金してくれて、慰めの手紙を書いてくれました。夫は料理が得意ではないので、Aさんはよく食事を作ってバスに乗って夫に届け、生活の面でも夫の面倒を見たり、夫の精神面の負担も静かに分担してくれました。私の最新の情報をいち早く知るため、毎回、弁護士が看守所で私と面会する時は、Aさんは夫と一緒に外で待ちました。
その後、私に対する裁判が行われた日、Aさんはさまざまな妨害を乗り越えて、やっと法廷の入り口で私に会うことができたのです。すると「恐れないで」と励ましてくれました。私が看守所から解放される日、Aさんは早くから待ってくれており、私を抱きしめて涙を流しました。
かつて、新唐人テレビ局が製作した「伝奇的な時代」というシリーズに、「雪の中の梅」という番組を見たことがあります。それは、辺鄙な離島に建設している強制労働教養所に不当に拘留された二人の女性法輪功学習者が、残酷な迫害に耐えた話です。二人は別々の監室に閉じ込められ、話すこともできないのです。尋問の際には、目で互いを励まし合うしかありませんでした。数年後、二人はなんとアメリカで偶然に再会し、大きな喜びを感じました。インタビューを受けた時、互いの関係をどう表現するかと聞かれた二人は、「生死を共にした」という言葉を使いました。それを見た時、私は涙が止まらず、Aさんと共に歩んだ道を思い出していました。
2、危機の中で、危険を冒して助けてくれた同修たち
解放された後、不当に拘留された夫のために無罪弁護をしようと、弁護士を雇いました。
ある日、休みを取って家にいた時、誰かがドアを叩きながら「開けて! 開けて!」と叫ぶ声がしました。多くの人がいるようで、ドアを開ける勇気がありませんでした。バルコニーから見ると、下にパトカーが停まっていました。何が起こっているのか分からず、とても怖かったです。私は迫害を受けたばかりで、再び連行されるのを恐れ、ドアを開けませんでした。外から、「仕事に行っていないから、家にいるはずだ。ドアを開けてくれないのか!」という声が聞こえ、その後、「開けて! 開けて!」と繰り返し叫ぶ声がしました。
警官らは雑談をし始めたのですが、すぐには去らない様子でした。私は同僚で同修でもあるBさんに電話をして、状況を伝えました。Bさんは恐れることなく、「ドアを開けないように」と私を励まし、私を安全な場所へ連れて行けるように「他の同修と相談してみる」と言いました。
待っている間はとても長く感じ、時々ドアのところやバルコニーから外の様子を確認しました。やがて、外の声は聞こえなくなりましたが、下に停まっているパトカーは去らず、車のドアが開いていることから中に人がいることが分かりました。
夜になって、突然外から誰かが小声で私を呼ぶ声がしました。その声は誰かわかりませんでしたが、きっと同修だと思いました。ドアを静かに開けると、外に2人の女性が立っていました。同修のCさんは何度か会ったことがある程度でした。もう一人の同修のDさんは初対面でした。私は家を出てドアを閉めて、二人は左と右に立って私を真ん中に挟んで、見事にパトカーを避けながら、呼んでおいたタクシーに乗り込みました。タクシーにはほかの同修も待っており、私たちはすぐにその場を離れました。
後になって分かったことですが、Cさんたちの3人はBさんの近所に住んでおり、その日用事で我が家に来られないBさんは、私の状況を伝えていたのでした。我が家の住所もCさんたちに教え、助けを求めていたのでした。
Cさんたちは、直ぐにタクシーに乗って我が家へ駆けつけたのでした。私の住むマンションの近くに着くと、状況を観察して、警察らがたまに我が家に行ってノックして、他の時間はパトカーに戻ってタバコを吸いながら雑談をするという行動パターンが分かったのでした。そこでCさんたち警官警官らがパトカーの中にいる隙を見計らって、私を迎えに来てくれたのでした。
Cさんたちの助けに対して、感謝の言葉は、とても足りるようなものではありません。彼女たちがどれほどのリスクを冒してくれたか、私にはとてもよく分かっているからです。
このような厳しい迫害が行われている中で、警官に見つかれば、彼女たちが直面するのは連行され、拘留、場合によっては懲役刑です。大法弟子が看守所、強制労働教養所、刑務所で受けた迫害の事実をCさんたちはよく分かっています。
ところが、Cさんたちは自分のことよりも、困っている同修(私)を助けることを選びました。これは、肉親でさえも簡単にはできないことです。
以前に数回会ったことのあるDさんは、私を自宅に連れて行き、心温まる言葉で励まし、美味しい夕食を作ってくれて、食後はゆっくり休むようにと言ってくれました。翌日、迷惑をかけたくないと思い、Dさんの家を出ることにしました。Dさんは私に十分なお金を渡し、タクシーに乗せてくれました。
私はタクシーでAさんの家に向かいました。Aさんは既に私のことを知っており、一時的な宿泊先も見つけてくれていました。それは私がまったく知らない修煉者のEさんの家でした。彼女は一人暮らしをしており、私の状況を聞いたEさんは、進んで「では、私の家に来てください」とAさんに言ったのでした。Aさんは私に、「心を落ち着かせて、たくさん学法してください」と言い残して母親の家に行きました。Aさんは、私に数日間過ごすのに必要な食料を用意してくれていました。
修煉を始めてからの10数年の間、多くの同修からさまざまな形で助けを受けてきました。
その無私無我の温かさは、私を感動させると同時に自分の至らなさも思い知らされましたが、私の心を浄化してくれました。私も同じように他人を思いやり、貢献する人になるようにと励まされました。
(明慧ネット「5.13」第24回世界法輪大法デーの入選文章)