【国際ネット法会】自我を放下し、大法の仕事をする時の基点を正しくする
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文/ニューヨークの大法弟子

 【明慧日本2021年7月26日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 2008年、私はアメリカで法を得て、今まで法輪大法を修煉して13年になります。この13年間に多くの波乱があり、難関を突破できない時の迷いと困惑もあれば、執念を放下した時の解放感と喜びもあります。ここで、13年間の修煉体験の一部を書き出して皆さんと交流したいと思います。

 2008年、私は博士課程を卒業しましたが、当時、金融危機がアメリカを席巻し、多くの人が失業しており、私も就職先が見つかりませんでした。小さい時からずっと順風満帆だった私には、大きな衝撃でした。また、子供を産んでから体調が悪くなり、ノイローゼがどんどん酷くなって、よく眠れませんでした。胃も痛くなったり、目はベタベタして眼圧が高くなったり、それに伴って落ち込んで怒りっぽくなり、本当にひどい状態でした。

 修煉者である母は「あなたを助けられるのは大法しかない」と言いました。そこで私は『轉法輪』を開き、何回も何回も真剣に読んでいくうちに、人間に生まれた本当の理由、人間がなぜ苦難に見舞われるのかを理解することができました。だんだんと心が落ち着いてきて、体調も良くなりました。一番明らかな変化として、毎晩座禅をしてからはすぐに眠りにつくことができ、睡眠の質が良くなりました。それからは、ノイローゼが治療もせずに治り、胃痛と眼圧異常も知らず知らずのうちに治りました。

 修煉してからの私は、健康で元気いっぱいになりました。その後わずか1年で、別の専門の修士号を取り、前に取った博士号と相まって、すぐに仕事が見つかりました。すべてのことを思い返してみると、当初もし大法を修煉していなければ、私はきっとまだ苦難の中でもがいていたことでしょう。今の心身両面の健康も、仕事も、楽しい生活もないと思います。

 出世の欲望を除去する

 ある執着心について、私は何年もかけてやっと除去しました。学歴が高くて能力がある人は、ふつう、比較的性格が強く、周囲を見下すと同時に、いわゆる「成功」を非常に気にしています。その時の私は、ちょうどこのような執着があって、しかもとても強かったのです。

 これまでのいくつかの仕事の中で、自分は周囲の人より優秀だとよく思っていました。上司の前でも、自分の優秀な一面を見せるようにしていて、これで確かに早く昇進昇給も実現しました。それで、私の出世意欲がさらに強くなって、仕事の量はますます多くなり、責任もますます大きくなり、週末でも残業しなければなりませんでした。学法煉功の時間がだんだん少なくなって、毎日仕事が終わった後はとても疲れていました。学法の時も、静功をする時も、発正念する時も寝込んだりしました。修煉する前の胃痛とノイローゼが再び現れて、体力が限界に達したと感じ、そのときはすでに修煉者の状態ではありませんでした。

 私は、とても後悔して師父の写真の前で悔みました。給料や出世はどうでもいいのです。いわゆる成功も求めません。そんなに労働時間が長くない仕事を按排してくださるように師父にお願いました。

 しばらくすると奇跡が現れて、別の部署に空きポストができました。その部署の仕事は今の私の仕事に比べてだいぶ楽で待遇も良いのです。そのポストを争う人が多いのですが、その部署の責任者が私を気に入って、私の上司と交渉するまで、私を彼の部署に異動させました。同僚たちはなぜ私が選ばれたのか不思議に思っていましたが、この仕事は師父が按排してくださったのだと、私には分かっていました。

 仕事はそれほど忙しくなくなり、時間に余裕ができて「三つのこと」をする時間が増えました。毎日大法から離れることなく、本当に幸せです。そして、仕事をただの仕事として、よく行っています。以前のような成功を追求したいという出世意欲はなくなりました。

 出世の意欲を放下してからは、心もだんだん和やかになりました。以前の強がり、自分をアピールしがちなことや、独り善がりはなくなりました。以前は同僚、家族、友人によく「強い性格の持ち主だ」と言われていましたが、今ではみんなに、性格が良くなって、表情が穏やかになって、声まで優しくなったと言われます。もし大法に正されなければ、私はきっと、俗世間の出世や、欲望の中にどんどん深くはまっていたと思います。健康もますます悪化していったことでしょう。すべては師父がしてくださったのです。師父のご恩に感謝いたします。

 大法プロジェクトに参加「自我」を放下する

 13年間の修煉を振り返ると、一番放下しにくい執着とは、「自分だけが良い」と思う、いわゆる「自我」だと分かりました。それはいろいろなことに現れて、除去してもまた出てくるのです。

 修煉を始めてから、私が参加した最初の大法プロジェクトは神韻宣伝活動でした。主にデパートで宣伝活動をし、チケット販売もするのですが、チラシを渡して相手に断られた時は自尊心が傷つけられて、早く引き上げたいと思ったりもしましたが、使命を果たすために最後までここで配り続けると考え直しました。これは、はじめて「自我」を除去するための努力でした。私はその年の神韻推進のプロジェクトを、やっと最後まで参加し続けることができました。それからの12年間、ずっと参加しています。

 チケット販売する中での感動的な出来事があって、今でも記憶に鮮明に残っています。その日、私はデパートにいて、メキシコ系のご夫婦が向かい側からやってきました。私はご夫婦をテレビの前に誘導して、神韻の広告を見てもらうことにしました。広告を見ながら、ご主人はずっと奥さんに通訳をしているのを見て、奥さんはあまり英語が分からないことに気付き、スペイン語の神韻広告のDVDを見てもらうことにしました。すると奥さんは、美しい広告に心を打たれて、これまでの警戒したような表情がなくなりました。

 そこで私は、公演スケジュール表を見てもらうと、ご主人はとても行きたい様子でした。そして、行ける日を教えてくれましたが、奥さんはチケットが高いと思ってしまったようで、最後に「今日はお金を持っていません」と言って、帰ろうとしました。このご夫婦は神韻に縁がある人で、今日の縁を逃せば、またいつ縁を結べるかが分かりません。そこで私は「この公演を観たら、きっと素晴らしいと思われるに違いありません。一番安いチケットは80ドルです。もし今日、お金の持ち合わせがないのでしたら、私が自分のクレジットカードでまず支払っておきます。公演の日に、私は劇場でスタッフをしていますので、その時、私にお金を返してもらっても大丈夫ですよ」と言いました。

 ご主人が私の話を奥さんに通訳すると、奥さんはとても感動して、ご主人に対して頭を上下に振りました。私がご夫婦にチケットを発券しようと、自分のクレジットカードを出そうとしていたところ、ご主人はクレジットカードを取り出し、少し恥ずかしそうに「私が払います。あなたに迷惑をかけません」と言いました。

 公演当日、劇場でそのご夫婦に会いました。その時はちょうど休憩時間で、2人はとても楽しそうに見えました。ご主人は「ありがとう、とても美しくて素晴らしいです」と言い、奥さんは私に大きなハグをしてくれました。それは救われた人の喜びであり、あの時私は諦めずに、彼らにチケットを買うように勧めた頑張りに感謝しているのだと思いました。

 毎年神韻が上演されるにつれて、ますます多くの人が神韻を知って絶賛しています。神韻の知名度がますます上がって、私たちの宣伝とチケット販売も、年々やりやすくなっています。ずっとこのまま続くと思っていた時に、新しい挑戦が来ました。

 2020年初頭、新型コロナウイルスが蔓延し、神韻公演が次から次へとキャンセルになって、デパートも続々と閉鎖されました。そのため、私はほかの真相を伝えるプロジェクトを探しました。外出が制限される中で、ネットを通じて、中国人に真相電話を掛けるプロジェクトは良い選択なのですが、私は、このプロジェクトには心から抵抗していました。何年か前にも、このプロジェクトをやってみたいと思ったのですが、同修から電話をかけたときの話しを聞いて、中国人を相手に、真相電話を掛けることは、神韻宣伝よりも難しいと思いました。神韻宣伝をしていた時は、相手の多くはアメリカの主流社会の人で、中国の伝統文化が好きで、私の勧めを断る時でも礼儀正しいのですが、中国人に電話をすると違います。「脱党」と聞いただけで失礼なことを言ったり、罵る人もいるからです。

 ある日、突然熱が出てそれから咳が出始め、咳がどんどんひどくなりました。胸全体と背中まで痛くなり、肺には多くの針が刺さっているような感じがしました。ネットで見た新型コロナの症状を連想してしまいました。修煉をしていない家族は、病院で検査を受けるように促しました。ある晩、寝ている間に息苦しくて目が覚めました。私はベッドに座って、横になるのが怖くなりました。それは横になると「明日の朝、太陽をみることはないかも知れない」と思ったからです。そして、私は「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と唱えることにしました。すると、呼吸が順調になって、ぐっすり眠れました。それからは、私は心の中のマイナス思考を排除するために、何度も「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と唱えました。

 しかし、自分は大法弟子で「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」を唱えることで一時的に症状は緩和したのですが「根本の問題はまだ解決していない」と思いました。根本の問題とは「自我」を放下できないという最大の執着心です。神韻宣伝をやったことで、その執着心はもう除去したと思っていましたが、大きい難に遭った時、その執着はまた現れてくるのです。それは、根本から除去していないからです。

 そんな時、同修に勧められて、私も真相電話掛けに参加することにしました。私はほぼ毎日、RTCに上がって電話をするようになりました。最初は原稿を読みますが、少しずつ慣れてだんだんと原稿を見ずに、自分の言葉で話せるようになりました。すべて順調に進んでいるようでしたが、ある日、一番怖がっていたこと、私を罵る中国人に出会ったのです。

 あの電話では、私が少し話したばかりなのに、相手はとても酷くて汚い言葉で罵り、電話を切りました。私はかけ直したりはしませんでした。それから、何回も私を罵倒する電話に出くわしてしまいました。たいていは我慢したのですが、どうしても我慢できない時には「あなたのご両親は、あなたに人を罵倒することを教えたのですか?」と言い返した時もありました。その時、相手は直ぐに電話を切ってしまい、二度と電話に出てくれませんでした。

 このような状態がしばらく続いた後、私は「なぜ我慢できないのか、なぜこのような関を乗り越えられないのか」と自問しました。答えは、幼い頃から周囲に褒められながら成長した私にとって、突然乱暴に罵られて「とても悔しい」と思ったからです。根本の原因は「自我」を放下しきれていないからです。そして私は、その頑固な「自我」を必ず除去しようと決心しました。

 その頃、よく「佛は皆さんを済度するため、かつて常人の中で物乞いをしていたのです。わたしは今日、門を大きく開いて大法を伝え、皆さんを済度しています。わたしは無数の苦難を嘗めても苦しく感じたことなどないのに、皆さんはまだ何が放下できないのでしょうか? あなたは心の中で放下できないものを天国へ持っていけるのでしょうか」[1]を暗唱しました。罵られたら、すぐ「自我」を除去するように発正念して、だんだんと罵られることによって腹が立つことが少なくなりました。

 ある日、ある公安局の警察に電話をすることになりました。電話番号と一緒に送られた個人情報の中の生年月日を見ると、彼らはほとんど1990年以降に生まれたことが分かりました。まだ若い彼らを救いたい一心で、電話をかけました。最初の電話で、真相を伝えているうちに、その警官は罵声を浴びせてきて電話を切りました。発正念をして「自我」を除去した経験があったため、心を落ち着かせて、電話をかけ続けました。電話の中では、私に「ありがとう」と言った警官もいたり、これから任務を執行する時には「良心に沿って行います」と言ってくれた警官もいました。

 その後、ある看守所に電話をかけた時、また罵倒されました。私は少しも心を動じさせず、冷静に「あなたがいくら私を罵っても、やはり今の利害関係をあなたに説明しなければいけなせん」と話すと、彼はすぐに罵声を止めて、最後まで大人しく真相を全部聞きました。その時、やっと師父のおっしゃた「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」 [2] を体得しました。

 内に向けて探し「なぜこの頃こんなに多くの電話相手に罵られるのか」を考えてみました。自分の口調に問題があると思いました。それから、電話をかける時に録音して聞いてみることにしました。すると私の口調に恨みがあると気づきました。中国の修煉者が迫害されているのを見て同情するほか、迫害の加担者への恨みも生じてしまい、その恨みはきっと相手の悪意を呼び起こすからだと思いました。

 『真相を伝える根本的な目的』を何回も勉強して、口調を調整するように練習を重ねていくと、だんだんと、罵声を浴びる電話相手が少なくなりました。罵られても、私は毎回穏やかに対応できるようになりました。その中で「自我」がまた少しずつ消去されていきました。その時、咳をしても胸と肺が痛いという症状もいつの間にか消えており、本当に「人心を捨て去れば、悪は自ずから敗る」 [3]のとおりです。

 プロジェクトに参加する基点を正しくする

 昨年末、幸運にもあるプロジェクトの執筆の仕事に参加しました。元々文章を書くことは私にとって難しいことではないはずですが、私が書いた最初の文章に、トレーニングしてくれた同修Aさんがたくさん添削を入れました。全体的に良い文章だと褒めてもいましたが、私はやはりメンツが立たないと思いました。

 メンツを立たせたい、闘争心が引き起こされて、その数日間は、このプロジェクトを止めたいとも思いました。やはり「自我」を放下しきれていないからです。そしてもっと深く掘り下げて探してみました。自分の文章力が良いため、私は、このプロジェクトに参加するように推薦されていたと思っていましたが、Aさんは「私の文章力はそれほど良いものでもない」と、そのように思われているのではないかと、私は想像しました。自分だけではなく、私を推薦した同修にまで、恥をかかせたような気がしたので諦めたくなりました。これは自分自身の能力を証明したい心であって、このプロジェクトに参加する基点が間違っていたのです。

 その執着心に気づいたので、私はこのプロジェクトを続けることにしました。それからは文章を書くとき、この正念は私に、真剣に資料を探させ、心を込めて書くように促しました。Aさんが私の文章を何回も添削し、そして添削意見を私に伝えてもらい、その中からAさんの真剣な態度と、文章を仕上げる技巧を感じることができました。書く技法だけではなく、仕事に対する姿勢についても、Aさんから教わったのでした。だんだんと文章の品質の向上に伴うにつれて、メンツを立たせたい心、自分の能力を証明したい心も自然になくなっていきました。

 文章力が上がるにつれて、ほかの人の文章の添削も任せられるようになりました。当時、私は毎週1編を書いており、同修Bさんの文章1編を添削していました。ある日の会議で、時間に余裕があるので、これからは毎週もう1編書けるとBさんが言い出したのですが、私は「2編を添削するような余裕がない」ことを理由に、私はきっぱり断りました。会議の後、Bさんは「若い修煉者たちの負担を分担するために、もう1編多く書くと考えたのです」と私に説明しました。

 Bさんは、本当に好意からもう1編を書くと提案したのに、なぜ自分はきっぱりと断ったのでしょうか? 私はうちに向けて探しました。すると怖いことに、自分の汚い私心が見つかりました。内心では、自分が自ら1編を書いた威徳は、Bさんの1編を添削する時の威徳より大きい、と思っていたのです。その基点はやはり自分の能力を証明したくて、威徳に執着する心もあったからです。なんと汚い考えでしょう!

 ここまで考えると、今後のやり方が見えてきました。それは、Bさんが毎週2編を書いて、私はもうこれからは文章を書かずに、Bさんの2編の添削だけをすることにしました。このようにすると、Bさんの余裕時間を充分に利用することができます。私にとっては、1編を添削することは、オリジナル文章を書くより所要時間が少ないので、私側の時間不足の問題も解決できます。Bさんにその考えを話すとBさんも喜んでくれました。今、2人は協力し合い1つのチームになって、毎週良質な文章2編を出すことができています。

 このような出来事から、大法弟子は必ず師父のお教えに従って修煉者の心を以て問題を考えなければならないと悟りました。「自我」を捨て、大法の仕事をやる前に基点を正しく置き、同修とよく協力することで、半分の労力で倍の成果をあげることができると思います。

 結び

 私は海外で法を得て修煉しているため、中国のような邪悪な迫害を経験したことがありません。修煉の中の関といえば、一つ一つの執着心の除去および真相を伝える中で出くわした難題です。中国にいても、海外にいても、自分の執着心に直面するかしないか、自分の不足を認める勇気があるかどうか、小さい問題に厳粛に対応しているかどうか、執着心を捨てるために確実に行動を取ったかどうか、大法の基準は同じだと思うのです。

 これからの修煉の中で、きっとまたいろいろな執着心が湧いてきて、頑固な「自我」がまたほかの形で現れるかもしれませんが、それを恐れず、隠さずに除去していきたいと思います。言葉を尽くしても修煉を教えてくださった師父への感謝の気持ちを表すことができません。

 注:
 [1] 李洪志師父の著書:『精進要旨』「真修」
 [2] 李洪志師父の著書:『精進要旨』「忍とは何か」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「哀しまないで」

 (2021年国際ネット法会の発表原稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/21/427251.html)
 
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