物に邪魔されないように
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子 大雄  

 【明慧日本2023年7月29日】夏休みに入り、やっと私の休みの時間ができたので、私はもっと法を勉強し、人々を救いに行こうと思いました。「 夏休みの間の午前中は、子供と一緒に宿題をチェックしたり、学法したり、法を書き写したりしよう。そして、午後からは同修たちと一緒に人を救うために出かけよう」と考えました。

 ところが、数日間連続で時間のほとんどが家の掃除に取られてしまって、学法も全然できませんでした。家族が多く、家がよく汚れます。普段は、仕事をしているので掃除をする時間がなかったのです。夏休みに、母と甥が来るので徹底的に掃除をしようと思って、掃除をすればするほど、あちこちにやるべきことがたくさん見つかりました。初日は、コーヒーテーブル、テレビキャビネット、ダイニングテーブルを整理し、なんとか見えるところをきれいにしました。 2日目には、やっと落ち着いて学法できると思ったら、台所の壁やドアの油まみれの汚れが気になりました。それも拭かなければならない、今度は浴室の汚れも気になり始め、結局、また一日の大半を掃除に費やしてしまいました。 これで、見えるところはきれいになったと思ったら、またある日、トイレの外壁から、何年も放置していた汚れが目に入り、洗剤をつけたり、ブラシをかけたりして、さらに半日、掃除に時間を費やしてしまいました。このようにして、何日経っても、学法にはなかなか進めませんでした。

 私は掃除をすることで、学法にも支障をきたすようになったとき、問題があることに気づきました! 私は、物事に真剣に取り組むあまり、時間とエネルギーを使い過ぎていたのです。物は人に奉仕するためのものなのに、人が物に支配されてしまっていたのです。目も心も、物事で満たされているようでは、修煉を精進することはできません。私は以前、鏡のように清潔な家を持つ同修たちを羨ましく思っていましたが、そうなるためには、どれだけの時間と努力が必要なのかということに気づきました。

 なぜ僧侶はお金を貯めないのか、物を貯めないシンプルな生活をするのか、今になってやっとわかるようになりました。物に邪魔されない、つまり外的なものに邪魔されないことは、欲望から心を解き放つ唯一の方法だからです。 物質的な欲望がなければ心は静かになります。欲望がなければ金銭もいらなくなるのです。大法の修煉は、他の修煉と要求は異なりますが、修煉の本質はみな同じで、七情六欲のあらゆる欲望と執着を取り除くための修煉なのです。 したがって、断ち切るべき物質的欲望は、やはり断ち切るべきであり、諦めるべき欲望は、やはり諦めるべきなのです。

 しかし、私たちは常人の中で生活しており、修煉しているので「全てを捨てよう」と言われると、それは不可能かも知れません。家の中が手入れされておらず、どこもかも散らかっているとしたら、それはいけないことです。 家庭内は、清潔で整理整頓された環境を保つことが大切であり、外部環境が清潔であることは、自分の空間の清潔さを保つ現れでもあります。

 ではこの問題は、どのようにすれば良いのでしょうか? 私は、掃除の時間の使い方について考えてみました。毎日の掃除は1時間を充てて、それ以上の時間は掃除に充てないようにしました。掃除を全部やり切らなくても、残りは翌日に行うようにして、学法の時間や法を書き写す時間を使わないように心掛けました。必ず優先順位を付け、重要ではないことに多くの時間を使ってはいけないのです。

 学法をしている時は、なぜこれらのことに気を取られ、学法に集中できないのかを考えてみました。床の汚れを見ると不快になり、隅々まで見て髪の毛があると気になったり、つまみあげないと心がねじれ、きれいに拭かないと気が済まない、これは実は一種の依存症なのです。環境をきれいにすることで、ある程度の満足感を得て、心が快適で、幸せな気持ちになるのです。

 考えてみれば、週末が来ると慌てて掃除をしたり、季節が変わるとすぐに洗濯して収めたり、季節の服を出したり、清潔な寝具一式を変えたりするのです。それらをすることによって、とても良い気分になるということは、 実際、物事から満足感や幸福感、心理的な喜びのようなものを得ているのです。 買い物依存症、潔癖症、アルコール中毒、ギャンブル依存症、喫煙中毒なども本質は同じで、みんな物に対する執着なのです。私たち修煉者は、必ずこれらの「依存症」を取り除かなければいけません。

 師父はこのように説かれました。「実は人間が身だしなみをきちんとすることは悪いことではありませんが、如何なることもこだわりすぎてはいけません。そうなってしまうと、人心が変異したことになり、それによって人類はこのことにおいて極端に走ってしまいます」[1]

 清潔と整頓は心がけるものの、あまりにも無駄な時間を使わないように、如何なることもこだわりすぎないように、法の中で自分を正した体験談を同修のみなさんと交流したいと思いました。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:「二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/7/14/462958.html)
 
関連文章