「一息おいて考える余裕」について悟る
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2021年8月8日】ここで最近の心性を修めたことを話します。

 一、「穏やかさ」を修める

 常人の時の私は、せっかちで、曲がった事に対して少しも目をつぶることが出来ない性格でしたが、修煉してからは顕著ではなくなりましたが、根本のものはずっと無くせず、ときどき出てしまいます。人の間違いを容認できず、せっかちな状態はほとんど一触即発で、いつも同修と耳まで赤くして争い、後から後悔してもやまず、頻繫に繰り返して自分には慈悲と寛容が足らず修煉しても出てこないので苦悩していました。

 最初、ある同修が日常的に携帯電話で真相を伝えているとき、何度交流しても、彼は自分の間違いを認識出来ず、いつものせっかちな心、人の間違いを容認できない心がわきあがって来て、私は同修と争ってしまいました。私の独善的な勢いは、完全に口論に陥ってしまい、後ですぐに後悔しますが、自分はなぜ穏やかに、同修と法の上から交流できないのかと思います。時間がたてば認識出来るのですが、しかしその中にいるときは押さえることができずまた間違ってしまいます。

 例えば、去年一つの真相プロジェクトをしていたとき、ある同修が私に意見を提起しましたが、この意見は私から見ればとても無理があったので、それでまた同修と喧嘩になってしまい、後から後悔しました。

 私はこの方面もしっかり修めなければと思い、ようやく内に向けて自分の心を探しました。

 まず、見つけたのは、焦燥感、面子の心、名の心、独善的な心、闘争心で、つまり人が間違ったのを容認できない心、嫉妬心等です。見つけてから、一定期間は良くなりますが、しかし時間が長くなると、また緩んでしまい、同じ間違いをしてしまいます。これに非常に苦悩していました。最後に自分の学法が少なすぎることに気づきました。法に同化した部分がとても少なく、ずっと寛容と慈悲が修めて出てこなかったのです。同時に、これは旧勢力が私の一面を強化するため按排したものだと分かり、その目的は私の修煉の向上を阻害するためです。

 二、一拍遅らせる

 これが分かってから、私は学法を強化し、自分の一思一念を全て大法に照らしました。

 師父は「業力を転化させるにあたっては、しっかり自分を制御し、常人のように正しく対処できないことによる失敗を避けるために、平素から慈悲の心と、穏やかな心理状態を保たなければなりません。そうすれば、何か問題が突然現われた時に、それに正しく対処することができます。平素から慈悲の心を保っていれば、問題が突然現われても、たいてい一息おいて考える余裕があります。心の中でいつも人とあれこれ争うことばかり考えているのであれば、問題が起きると、必ず相手と真っ向からやり合うに違いありません」[1]と説かれました。

 私が分かったのは、心の中に法があって初めて慈悲が出てくるのです。しかし私はまだそんなに大きな慈悲がなく、人心を抑制できないとき、どうすればいいのでしょうか?

 このとき、また師父の説かれた「穏やか」に関する法を思い出しました。

 師「先ほど使った形容詞の中にある言葉は非常に良かったです。つまり『穏やか』という言葉です。(みな笑って) 人類の過剰な激情、強力な闘争性は正常な人類の状態ではなく、魔性の状態下で現れたものです。人間に善悪が同時に存在しているため、非常に興奮しているとき、ひいては理性を超えた行動は、その多くが現代音楽のものです。理性のない激情、理性を失った狂気は実は負のものを誘発しています。穏やかな状態こそ、善であり、本当の人間の状態です。穏やかな中にも高低の起伏があり、これは完全に理性的なものです。平和な中にも光り輝きを表現することができますが、これは穏やかさを基礎としています」[2]

 私は心の中で絶えず念じました。「穏やかに、穏やかに、必ず穏やかに」

 思い出してみると、私は人と口論しているとき、まず自分がこれを言うべきかどうかを考えず、何かを聞いたらすぐに口に出して言っていました。私はどんな心理状態で言うべきなのでしょうか? 私の話の心理状態と口調は法に則っているでしょうか? 師父のおっしゃった「たいてい一息おいて考える余裕があります」[1]を思い出し、これで私は自分に一つの要求をしました。人が異なる意見を言ったとき、自分の話をする前にまず「一拍遅れて」、自分の意見を言うことを焦らず、まずリラックスして、自分の心理状態は法にあるのかどうかを考えてみて、自分が言おうとしている話は寛容があるのか、慈悲があるのかを考えます。このようにしていると、法に則って考える余裕が出て、私の容量も大きくなったような気がしました。また私は修煉と実修のジレンマを突破したようで、突然視野が開けたようでした。

 とても早くに試練がきました。ある学法、交流のとき、私はあることを話し、また自分の認識も話したとき、ある同修が受け入れられず、彼はおそらく自分が言われていると思ったようで、すぐに怒りだして、話も法に則らなくなりました。このとき、私は反論しようとして、すぐにはっとして、まず「一拍遅れて」から言おう、まずゆっくり、同時に師父の法を思い出しました。「人心があるから修煉できるのです。このような人は古傷に触れられたくないため、時に弁解しますが、それは見下されることを恐れているからです」[3]、「強 辯に遇えば争論す勿れ 内に向けて因を求むは修煉 釈明しようとすればするほど心重し 坦懐にて執着無ければ知見出づ」[4]

 これで私の心は法の中で静かになり、同時に一種の慈悲と寛容が生まれ、心穏やかに同修と法の上から交流し、同修もすぐに穏やかになりました。一見強烈なトラブルが発生したように見えても、私は常人の情緒を抑制して、法をもって自分に要求すれば、トラブルは解けてしまいます。私の心は軽くなり、楽しくなりました。修煉する中で寛容と慈悲の心で私の空間場は満たされました。

 現段階の少しの悟りなので、法に則っていなければ、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『音楽と美術創作会での説法』「音楽創作会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
 [4] 李洪志師父の詩 :『洪吟三』「辯少なしに」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/1/428971.html)
 
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