ワクチン接種の現象からその背後を語る
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年8月14日】中国での感染状況が厳しくなるにつれ、ユニバーサルワクチネーション(国民全員がワクチンを受ける方法)の現象がますます普遍的になって来ています。一般人にとって、これは科学が大いにその力を発揮し、世の人々が少しずつ神への信仰を失ってきていることが原因です。

 師父はこう説かれました。「疫病自体は神が段取りしたことであり、歴史の発展において必然的に現れるのです。人心が悪くなれば、業力を造り、病にかかり、災難に見舞われるのです。この時期に神を信じていない人は何らかの措置を取るでしょう。措置という言葉の同音語がすでに、措置はすなわち「錯誤の実施」と示唆しているのです(注)。歴史上、多くの有益な教訓がありましたが、中共邪党に洗脳され、無神論を受け入れた現代の中国人は神に背を向け、歴史の教訓から学ばなくなったのです。

 世の々が救われる方法について、師父はこう説かれました。「皆さんは歴史を変えるために来たのではなく、歴史の最も危険な時期に人を救いに来たのです。真相を伝えること、共産党組織から脱退するよう勧めること、心を込めて真言を唱えるよう教えることなど、いずれも特効薬で、人を救う最も効果的な方法です」 [1]

 修煉者として、私たちが直面している一つの問題は、中国のほとんどのところでワクチン接種が義務付けられており、接種を受けなければ出社できないということです。表面上、仕事とワクチン接種のどちらかを選ばなければならないような虚像です。これについて私はこう考えています。どんな職場で真相を伝え、衆生を救い済度するかは師父が段取りしており、ワクチン接種は明らかに師父の按排ではありません。なぜなら修煉者の本体は佛体に転化する過程にあり、ますます純粋になっていくからです。私たちが修煉を始めたその日から、師父はずっと私たちの体をきれいにして下さっています。だからこそ私たちはさらに師父と大法を信じ、師父が私たちのために支払ったすべてを大切にすべきです。このような仕事とワクチン接種のどちらを選ぶかという虚像は、まさに私たちが真相を伝える良いきっかけではないでしょうか? 世界各地で大法による病気治療と健康保持の不思議な現象についてずっと研究が行なわれておりますので、関連する文章を整理すれば、人を救う最高の素材となります。これで法を実証するだけではなく、師父が法を正すことを手伝うことにもなります。

 法を正す進展全体から見ると、武漢肺炎が爆発的に発生して以来、大法弟子たちは疫病の中で、どのようにして自分を救えるかを全面的に説明し始めています。しかもこの時、私たちがもしワクチン接種に協力したならば、それは法を正す進展と逆になってしまうのではないでしょうか? そして、私たちはいったい何を実証しているのでしょうか。しかも一つのことは、表面上ほど簡単ではなく、もし私たちが師父の按排された道をしっかり歩むことが出来なければ、それは何の要素がこのすべてを段取りしたでしょうか。この要素に対して、私たちはどんな態度と方法を取るかということも修煉の一部分です。

 ここで、2つの例を紹介します。同修の1人は病院の看護師でしたが、周りの人がみなワクチンを接種していたので、状況も非常に厳しかったのです。同修は上司に、自分は幼いころからアレルギー体質であるため、接種できないと説明したところ、この事はこれで終わりました。もう一つの例は、自分のことですが、自分はずっと引き延ばして接種しませんでした。後になって脳裏に「適さない人」という言葉が浮かんで来ましたので、当時の社長に自分は「適さない人」だと報告しました。その後、関連する担当者から社長に電話がかかって来ました。当時私はちょうど社長の隣りにいましたので、社長に聞かれた時、数日前の健康診断で高血圧(当時の状況)だったと伝えました。そして、それで終わりました。ここで注意しなければならないことは、嘘をつくことを推奨しないということです。なぜなら、それにより、邪悪に隙に乗じられて、病業の虚像が現れる可能性があるからです。

 みんなが予防接種を受けているのに、あなたが受けなければ人に理解されず、衆生を救い済度することに不利だという人がいるかも知れません。私の考えでは、これは恐怖や不安に駆られて、邪悪の要素に妥協してしまったことが原因です。似たような言い方はほかにもたくさんあります。例えば、私たちに病業が現れることを家族が目にすると、法を実証することに不利だから、やはり病院に行きましょうとか、いわゆる「ゼロ行動」で家族の理解を得るためにサインを選んだとか、パンデミック期間中に居住地区に入って人を救う時、偽りの情報を登録する等々です。

 時には、状況が複雑で、考慮する必要のある多くの要因があります。しかし、そうであればあるほど、正しい道を歩むべきだと思います。 そうでないと、人を救えるかどうかだけの問題ではなく、自分自身の修煉さえ問題となり、人を救えたとしても、その人はどこへ行けばいいのでしょうか。
 
 個人の浅はかな考えであり、次元に限りがありますので、足りないところについては慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『理性』
 
 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、同修と切磋琢磨し、「比して学び、比して修す」ためです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/5/429146.html)
 
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