顕示心を取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年8月16日】修煉とは、執着を取り除くことです。 苦しみをもたらす執着には、恨み、憎しみ、嫉妬、争い、恐怖などがあります。心が怒ったり、落ち込んだり、不安になったり、などの不快な感情を抱かせ、魔性的な側面も現れやすいものです。 その時に見つけられなくても、後になって、これらの執着を容易に見つけ出すことができるのです。

 しかし、顕示心理は、歓喜心と絡み合っていることが多いため、簡単には見抜けない執着なのです。人は、何かをしているときに楽しいと感じたり、何かの分野で能力や資格を持っていたり、他の人よりも見栄えが良かったりすると、自分が優れていると思ったり、人よりも優れていると思ったりしがちです。さらに、「自分の良さを人に見てもらえると嬉しい」「ワクワクする」といったポジティブな感情につながる場合には、「見せびらかしたい」と言う優越感に気づかないことが多いのです。師父は「この顕示心は修煉者にとって非常に有害なものです」[1]と説かれました。

 一、転倒して見つけた自分の執着

 5、6年前、バレーボールを一緒にやっていた友人と偶然再会しました。もう何年も会っていませんでした。彼は、大学のバレーボール部に所属していると言い、私に入部を勧めてきました。私は入会を承諾しましたが、同修がすべき三つのことに忙しかったので、活動には参加しませんでした。しばらくして、彼がWeChatで活動に誘ってくれたので、行ってみました。

 着いてみると、そのクラブにはプロとアマチュアのバレーボール選手がいました。プロとして活躍していた人たちは、とても上手にプレーしていました。私はセッターとしてボールを打つ練習をしました。若いプロの選手たちは、ボールを打つことにとても興奮していて、セッターとしての私を素晴らしいと思ってくれました。あんなにボールを叩きつけたのは久しぶりだと言っていました。本当にかっこいいと言ってくれました。チーム分けをしたときに、みんな私のチームに入りたいと言ってきました。ゲームは素晴らしいものでした。もちろん、私のチームが勝ったのは、相手チームに良いセッターがいなかったからです。スパイカーはセッターがいないとうまくいきません。

 試合が終わった後、私はしばらくクラブに戻らなかったのですが、クラブの若い人たちは私と一緒にプレーしたいと思っていました。よく誘われて行くときもあれば、行かないときもありました。いくつかの大企業がアマチュアのバレーボール選手のための大会を開催したとき、クラブが私を招待してくれたので、参加しました。何度か試合した後、私たちのチームが優勝しました。その時からバレーボールに執着が湧きました。週に一度はバレーボールをしたいと思っていました。その時は、執着があるとわかっていても、どうすることもできませんでした。

 その考えを一変させたのは、試合の前日にある出来事があったからです。その日、私は仕事の帰りに食料品を買いました。電動アシスト自転車のカゴは食料品でいっぱいで、買ってきた豆腐を置く場所がなく、ハンドルにぶら下げていました。しかし、しばらくすると豆腐の袋に穴が開いていて、水が漏れていることに気づきました。このまま穴が大きくなって豆腐が落ちてしまうのではないかと思い、豆腐をてのひらの上に載せて、もう片方の手で自転車のハンドルを持ちました。

 前方にはバス停があり、たくさんの人が待っていたので、ブレーキをかけて近づきました。しかし、バランスを崩して豆腐が飛んでしまい、地面に落ちてしまいました。最初にアゴが地面に当たった感じがして、それから頭が真っ白になり、体は動かせないが、意識ははっきりしていました。「自分は修煉者だ、自分は大丈夫、きっと大丈夫」と思いました。15秒ほど動かずにいて、立ち上がりました。

 バス停にいた十数人の人たちが、静かに私を見ていました。すると、私の靴が片方だけ脱げてしまい、3メートルほど離れたところに落ちていました。私は靴を履き、自転車を起こして、散らばった食料品を拾いました。そして家に向かって自転車を漕ぎました。

 帰宅後、自転車をチェックしてみましたが、ダメージはありませんでした。しかし、ズボンは破れ、膝には青アザができ、下あごの皮膚が剥がれて、あごの腫れは大きくなっていました。私は、「あごが腫れている状態で、明日バレーボールをしに行くことはできない」と思いました。

 その日の夜、落ち着いて考えてみました。「これは全部、豆腐のせいだ。豆腐を買わなければよかった、袋に穴が開いていなければよかった」と思いました。「穴」という言葉を考えているうちに、ふと自分の心性には漏れがあるのではないかと気が付きました。修煉に偶然はない。執着があるからこそ起きたことなのでしょうが、それに気づかなかったのです。この転倒事故で目が覚めました。

 そして、次の日にバレーボールをしに行こうと思い、それが転倒の原因だったのかもしれません。少しずつ内側に目を向けていくと、目立ちたいという気持ちや、顕示心という執着が見えてきました。

 師はこう説かれまいした。「顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです」[2]

 この時、私は悪魔の部分があまりにも大きく、自分ではコントロールできないと感じていました。その時のことを思い出しました。「私が倒れたことは、前に進めないということであり、靴が脱げていたことは、邪ということを強調しました(中国語では「靴」と「邪」と同じ発音)」。よくよく考えてみると、この事故は私の執着から来ているものだと完全に理解できました。このことに気づいてから、私はクラブに行くのをやめました。面白かったのは、その後、誰からも誘われなくなってしまったことです。

 二、日常生活に潜む顕示心

 私はしばらくの間、首の左側にしこりを感じていました。痛くもかゆくもなかったのですが、あってはならないものだったのです。私はそれを認めませんでした。綺麗にしようと思って、よく正念を発していましたが、一向に小さくなりませんでした。逆に大きくなってしまったのです。これは、私に心性の問題があり、まだ発見していない執着心があるはずだということを示していました。業によるものであれ、借金によるものであれ、すべては私の心性に関係していたのです。旧勢力は、私の心性の抜け穴を通して、私を迫害し、干渉していたのです。抜け道がなければ、誰にも邪魔されません。だから、一刻も早く執着を見つけて取り除くことが重要だったです。それからは、自分が何を考えているのか、間違った考えが浮かんでいないかを意識して見ていました。

 あるとき、私は正念を発している途中、母が通りかかっていました。私は「ほら、見て、私の姿勢がいいでしょう」と思ったのです。この考えが浮かんだ瞬間、私はそれに気づき、すぐにそれを掴みました。また顕示心でした。以前からこのような考えを持っていたことは知っていましたが、その時はそれが何であるかを認識していませんでした。その時は、絶対に排除しようと思いました。もういらないと思っていました。師父の言葉を思い出しました。「動作が綺麗だとか、なんでも顕示しようとします」[3]。それはまさに私の状態だと思いました。

 数日後の学法グループでは、私は「しかし、彼らの心はどれほど静かでしょうか? 恐ろしいほど静かでした。一人であそこまで静かになるならまだしも、四、五人が一緒に坐っていて、いずれもあのように静かで、まるで一溜まりの静止している水のように何もありません。わたしは彼らの心を感じ取ろうと思っても何も感じ取ることができませんでした。あの数日間はわたしは本当に辛く感じ、言い知れぬ気持ちを覚えました。それは普通の人には想像もできないし、感じ取ることもできないもので、完全に『無為』で、『空』でした」[3]という法を読んでいたとき、私は涙を流しながら、自分の力では及ばない領域を感じていました。私はこれまでに何度も、なぜ師父がこの法を説かれたのかと自問していました。 今回、私が感動したのは、私の心が大覚者の心と対照的だったからです。そこでは正念を発しているように見えますが、心の中では顕示心が生じてきたのです。私は一人でいるとき、静かにしていても、もう一人いるとすぐに顕示心が出てきてしまいます。こんなにたくさんの顕示心があってはいけません。勇気を持って、精進すべきです。

 自分の思考に注意を払ってみると、今まで気づかなかった「見せびらかしたい」という気持ちが見えてきました。例えば、散歩に出かけると、「身体のスタイルがいい」「歩き方が軽い」「年齢より若く見える」などと思っていました。

 ある日、家で、金属製の椅子の脚を布で包んで、動かしても音がしないようにしました。いいアイデアだと思った私は、すぐに家族を呼んで自分の頭の良さをアピールしたいと思いました。しかし、すぐにその考えが間違っていることに気づき、家族を呼ぶのを止めました。そして、こんな些細なことでも自慢したいと思った自分の心を笑ってしまいました。

 これを見ると、顕示心が本当に自分の潜在意識に深く浸透していて、自然に形成されているので、気をつけないと気づかないです。また、多くの心が顕示心と関係していることがわかりました。例えば、嫉妬心で、他人が自分を上回ると、自分を見せられないと感じ、自分の中に嫉妬心が形成されます。他人を見下す心も顕示心であり、自分は他人よりも優れている、人よりも優れていると思うのです。 闘争心は、自分を見せたい、優位に立ちたいという気持ちでもあり、それがあって初めて争いになります。

 つまり、「見せびらかす」ことは、「真・善・忍」に則っていないということです。捨てなければならない執着なのです。超能力者であっても、自慢話をすると力が抜けてしまいます。修煉者としては、それを排除しなければなりません。見せびらかすことや、名声、利益、感傷といった他の執着を取り除いて初めて、心が静かになることができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「北京法輪大法輔導員会議での法を正すことに関する意見」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「定論」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/3/414492.html)
 
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