同修が天目を通じて見えているものについて
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年8月19日】天目が開いていても、開いていなくても、それは修煉状態による違いだと思います。見える同修が天目で見たものをどのように思い、見えない同修が他の同修の見えているものをどのように扱うかは、それぞれに試練があり、取り除くべきものがあると思います。肝心なのは、時々刻々、事毎に内に向けて探し、執着を取り除き、心性を高めていくことができるかどうかなのです。

 一、見えている同修に話したいこと

 天目が開いている同修は通常、見えているものをそのまま信じます。では、具体的にどのようなものが見えているのでしょうか? いくつかのケースがあると思います。

 一つ目は、「見えたものは真実である」ということです。しかし、たとえそれが真実であっても、自分を偉く思ってはいけません。なぜならば、自分が見えているのは、自分の次元において見えるべき真実の現われの一部分に過ぎないからです。特に修煉中の者として、なおさら自分がいる次元には「局限性」があることをはっきりと認識すべきであり、勝手に結論を下すべきではありません。それに、修煉者としては口を修めるべきであり、しっかり自制すべきです。

 何が見えても聞こえても、それは私たちに予言を行わせるためのものではなく、何かを取り除くべきだとヒントを与えたり、修煉中の私たちを鼓舞したりするもので、いずれも私たちを向上させるためのものです。

 また、自分の執着が旧勢力に付け入る隙を与えてしまったケースもあるでしょう。旧勢力はあなたの執着を強化させ、しかもあなたにはっきりと見させ、的確に話させるのですが、目的はあなたの修煉をダメにすることです。

 もう一つのケースは、見えたのは偽物で、自身の動じた念によって変化したものです。師父は説法の中でこの問題を特別に取り上げられ、それが修煉者に与える危害、およびその結果について「天目でものを見る時、心が動ずることなく静かに見れば、真実が見えますが、念が少しでも生じれば、見えたものはすべて幻になります。それがつまり『自分の心より生じる魔』のことで、『心による変化』とも呼ばれています」[1]と警告されています。また、「特に、煉功して一定の次元で天目が開いた人に、このことが起きやすいのです」[1]と戒められています。これが起きやすい問題であれば、天目が開いている同修はなおさら常に警戒し、この問題において躓かないように神経を張り詰めるべきです。

 では、自分の見えている状況はどのケースに属するのでしょうか? 真であるか偽であるかは、迷いの中で悟るしかありません。師父の慈悲なるご教化に背かないためには、自分の執着の所在に対する啓示、または更なる精進に対する鼓舞であれば、しっかりと悟るべきだと思います。しかし、見えているのは世の中の移り変わりや時間に関するものであれば、心も念も動じるべきではないでしょう。個人的に思うには、すべてが師父の選択であり、法を正す時間および実際の状況は法を正すことの必要性に応じて展開されていくので、師父がまだされていないことであれば、未来にもそれがないと理解しています。

 心も念も動じないだけでなく、なぜそのようなことが自分に見えたのか、それが自分の何かの人心による変化ではないかと、深く突き詰めてみるのもいいでしょう。常に自分を正し、時々刻々自分を戒めるべきです。「いかなる佛、いかなる道、いかなる神、いかなる魔に対しても、心が動じることがなければ、必ず成功するに違いありません」[1]

 二、見えていない同修に話したいこと

 天目が開いていない同修よ。あなたが天目が開いている同修の言うことを聞いてみたいと思ったとき、自分には次のような人心や問題があることに気付いたでしょうか? たとえば、好奇心、物好きな心、何かを求めたい心、言われていることへの関心、功能(天目)への執着、師と法を堅く信じていない(少なくともこの問題において、あなたは法を師としておらず、同修の言うことに重みを置こうとしている)などがあるかもしれません。もし「聞いてみたい」という一念を捉え、すぐに排斥することができれば、あなたは積極的に修めていることになり、修煉において大きな向上が得られるでしょう。

 ある昔のことが頭を過りました。1998年のある日、デスクの前に座って『轉法輪』の転写をしていると、廊下から同僚の話し声が聞こえてきました。その同僚は博士号の試験を受けたくて応募したのですが、会社から却下されたと聞いていました。以前、彼は私から大法の真相を聞き、『轉法輪』も読んだので、私はずっと彼のことを気にしていました。彼の声が聞こえたとき、「会社から承認を得ましたか?」と聞きに行こうと立ち上がった直後、私はすぐにこう自問しました。「これはどういう心か? 好奇心だ!」。そこで、私は自分に「座りなさい!」と言い、再び座って法の転写を始めました。

 それ以来、好奇心をあまり感じなくなりました。自分に言っていないこと、聞いておらず、または、はっきり聞こえなかった物事に関して、尋ねようまたは質問しようという気持ちはほとんどありません。私が思うには、私が知るべきことであればいずれは知ることになり、知ってはいけないことであれば知らない方がいいのです。時には、騒がしい環境の中でも、「聞こえたが聴いていない」ような心の状態を保つことができます。今思えば、この好奇心はまさに私が自分に「座りなさい!」と言った直後に、師父が取り除いて下さったのです。師父はこのようにおっしゃっています。「あなたが正念を堅め、執着を排斥することができるとき、私は少しずつ少しずつ取り除いてあげています。あなたにできる分を私は取り除き、その分を消してあげます」 [2]

 何かを言ったりしたりした後、「なぜそう言ったのか? なぜそうしたのか?」とよく自問した方がいいのです。これは積極的に修煉しているからです。(問題が山積みとなり、関が乗り越えられないほど大きくなってからやっと内に向けて探し始めては、あまりにも受身的になってしまうので、できるだけ避けるべきです)。そうすれば、自分の言動の裏に隠されている執着が見えてきます。絶えず自分を否定することは、絶えず向上しているのです。

 三、過去の出来事

 その一、1996年頃、多くの学習者はただ感性から法を認識しており、功能により多くの興味を示していました。ある日、早朝の集団煉功が終わった後、ある年配の同修が私にこう言いました。「数日前、ある天目が開いている同修のところに行きました。その場には十数人がいて、天目が開いている同修は皆の状況をみて、1人1人に状況説明をしました。いつかあなたをそこに連れて行ってあげるので、彼女に見てもらいましょうか」。私はその場で「私は行きません。私にはそのような好奇心がありません。それに、彼女に顕示心を起こさせたくないのです」と言いました。

 数年前、ある同修にこの出来事を話したとき、その同修は「私だったら、行ったと思います」と言いました。確かに、試練や誘惑は常にそばにあるのです。

 その二、1999年10月のある日、道端で煉功点の元輔導員に遇いました。彼女は「師父の新経文が出ました。同修のところに届けに行くところです」と言いました。私はその紙を自転車のバスケットカバーの上で広げて、ざっと内容に目を通しましたが、内容の真偽を判別できませんでした。「どうしてこれが本当に師父によるものだと分かるのですか?」と聞くと、同修は「天目が開いている同修に確認してもらいました」と答えました。私はその場で「伝えて読ませることはやめましょう。本物ではないかもしれません。師父がこういう方式(天目が開いている同修に真偽を確認させること)で経文を発表されることはありません。それではすべてが乱れてしまうのではありませんか? 師父は必ず明確かつ確実な方法で経文を発表されると思います。実際、2000年1月19日、明慧ネットで、「師父の写真:山中で世間を静観される」が発表されました。

 修煉の中で、本当に試練が随所に存在していて、ものすごく厳しいものもあります。しっかりすることができなければ、「良かれと思ってやったことが間違いであった」ということになりかねません。

 2002年7月のある日、同修から師父の新経文らしい詩を受け取りました。翌日、地方にある実家に帰る予定だったので、出発前にプリントアウトして他の同修に渡しておこうと考えた私は、プリントするためにある同修の家に行きました。プリントを実行しようとエンターキーを押すと、前の行が削除されて消えてしまい、何回操作しても同じ現象が現れました。私の操作ミスかもしれないと思って、同修の娘さんにしてもらっても、同じ結果でした。そこで、私はすぐに「この詩には問題があるかもしれない。プリントを一旦やめよう。地方に行ってから、他の同修にも確認してもらおう」と考えました。後に、それが偽の経文であることが確認されました。危うく偽りの経文を渡してしまうところだったと思うと、怖くなりました。と同時に、私の不用意な行動が大きな過ちにならないように、師父はいつも弟子を見守って下さっていることも実感しました。師父に感謝しています!

 法を多くしっかりと学び、心に法があって、初めて試練を前にして迷わず惑わされずに済みます。「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[3]

 個人的な思考に過ぎず、皆さんと切磋琢磨できればと思います。また、次元に限りがあるため、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/5/12/424850.html)
 
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