神の念と人間の念 一念の違いは雲泥の差
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年10月22日】近年では、一部の地区の同修は依然としてひどい迫害を受けています。不当に刑務所に拘禁された同修も少なくありません。 ここでは、迫害の中で自分の一つの考え一つの念をどのように修めるかについて、個人の認識を述べたいと思います。

 中国共産党(以下、中共)の邪悪さは言うまでもなく、毒薬であればいつまでも毒を持っているので、それには言及しないことにします。同修が不当に連行されるような魔難に遭遇する時、まず慌てず、恐れないようにすべきです。師父は「あなたに恐れ有らば 它は直に抓む 念を正にすれば 悪は直に崩れる」 [1]と説かれています。私たちは遭遇した以上、師父が常に見守ってくださっていることを忘れずに、修煉者の正念で対処しなければなりません。その過程の一つ一つの念を、他の空間の邪悪もじっと見つめています。私たちの念が法に則っていれば、心を動じさせず自我を放下し、慈悲で他人のためである限り、師父はすべてを解決して下さいます。

 魔難に遭った同修夫妻の異なる結果

 私が以前出会った2人の同修は、連行され、実刑判決を下されましたが、正しい念を持って正しく行ったことで、最終的に師父の慈悲深いご加持の下で、無事に魔難から抜け出しました。

 Aさん夫妻は共に大法弟子であり、中共による迫害が最もひどい時期に連行され、留置場に拘束されて過酷な拷問を受けた後、2人は共に懲役10年の実刑判決を言い渡されました。刑務所に送られる時でも、同修は心を動じさせず、恐れることなく、ずっと「邪悪は決めることができずに、すべては師父が決められているのだ」と確信していました。2人はそれぞれ男子刑務所と女子刑務所に送られました。

 当日、2人が刑務所に到着すると、昼食の時間になりました。誰かがAさんに「ここで待ちなさい、食事を取って来るから」と言いました。 Aさんは手を振って、首を振りながら「食事を用意する必要はありません。家に帰って食べます」と言いました。その時、 Aさんは「ここは大法弟子が滞在する場所ではない、私は邪悪を滅するためにここに来たのだ。私の家はここから数百キロも離れているので、普段は近距離で発正念をすることはなかなかできないが、今日こそ邪悪を滅しよう」と考えました。

 そこで彼は袖をまくり、ベッドの上で両足を組み、一心不乱に発正念をし始めました。しばらくして、Aさんは午後には帰宅するとの知らせを受けました。 それを聞いた彼は、このようになるべきだと思い、喜びもせず、正念を持ち続けました。

 午後、彼を送り出すときには「妻と一緒に帰る」と言われていましたが、急に状況が変わり「妻の方はまだ様子を見る」と言われました。このようにして、Aさんは何事もなく帰宅しましたが、妻は刑務所で7、8年も拘禁されました。

 数年後、妻は解放されて家に戻ってきました。Aさんは彼女と交流し、妻に「その時、どの念が法に則っていなかったのか、なぜ邪悪に隙きに乗じられたのか」を思い出してもらいました。彼女は「刑務所に送られた後、絶望と無力感に襲われ、心が動じ、旧勢力の按排を認めてしまい、結果的に全く違う結末を迎えることになってしまった」と言いました。

 実は、師父は「道法」の中で、どのようにして関を乗り越えるかについて、すでに明確に説かれました。「魔難がやってくるとき、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこれを利用して尽きることのない妨害と破壊を行ない、学習者は長期にわたり魔難に陥っています。本当のところ、これは人間の一面の法に対する認識不足から起こったことで、人為的に皆さんの神の一面を抑制し、つまり皆さんが修めてできあがったその部分を抑制し、法を正すのを阻んでいるのです。修めてまだできあがっていない一面が、どうしても主意識を抑制し、すでに法を得た一面を抑制することができるものでしょうか? 人為的に魔を助長し、それが法の隙につけ入っているのです」 [2]

 私たちは神を修める修煉者ですから、何かに遭遇したときには、千百年来形成された人間の考えではなく、神の正念を用いて考えるべきなのです。難に直面したとき、ひとたび人間的なものを混ぜてしまうと、修煉ができている神の一面を抑制し、邪悪に隙につけ入られるのです。

 また、他の空間の邪悪は虎視眈眈と大法弟の一つ一つの念を見つめていて、漏れがあればすぐ隙きに乗じてきます。師父の法身が守って下さるとは言え、弟子が人間の考えを用いる時に、師父も為す術がありません。

 師父はこのように説かれています。「弟子として、魔難がやってくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えます。それでも魔難が尽きることなく長引くのであれば、もし、心性または行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放任している隙につけ入っているに違いありません。修煉者は、なんといっても常人ではないのですが、ならば、本性の一面は、なぜ法を正さないのでしょうか?」 [2]。「一つの心が動かなければ、全ての変動を制することができる!」 [3]

 難に直面したAさんは、心を動じず、正念を持って正しく行い、口ではなく行動でやり遂げたので、師父が危険な状況を無事にして下さいました。

 もう一つは、危機に直面したとき、自我を放下し(自我は私「し」である)、衆生のことを考えるべきだと思います。「自分は被害者だ。あなた達は私を迫害しているから、絶対に負けない」と思うのであれば、闘争心や怨恨心、お高くとまっている心が生じやすくなります。これらの心によって、邪悪が隙きに乗じて魔難が大きくなります。

 3人の同修の異なる境遇

 3人の同修が、迫害の真相を伝えるために外出したところ、同時に連行されました。同修Bさんは「すべての心を放下し、恐れることはありません。私たちはすべてを師父に任せます。師父は決定権を握っているからです」、「裁判が始まったとき、自分のことを考えておらず、真相が分からない裁判席の衆生を見て、表面上では魔難の苦しみを味わっているのは私たちですが、本当の被害者は衆生たちだと思った時に、悲しみの涙を流しました。そして、心の中で『私たちは少し苦しんでも構いませんが、これらの衆生が大法に対する罪を犯さないよう、淘汰されないように』と師父にお願いしました」と言いました。

 この考えの中で、彼女は自我を放下し、完全に他人のために慈悲心が生まれたのです。その結果、判決文が下され、2人は懲役1年の実刑を下されましたが、執行せず、その場で解放されて帰宅しました。

 一方、3人目の同修は、自分が高齢であること、体調が悪いこと、家庭生活が大変なこと、絶対に判決を受けてはいけないことなどを話し続け、完全に人心で対処していたので、結果的に懲役3年の実刑判決を宣告され、即時に刑務所に拘禁されました。出所したときには、この同修はすでに「転向」し、正念がなくなりました。今日に至るまで、この同修は大法に戻っていません。

 同修たちは同じ関を経験したのですが、修煉の状態が違います。神の念と人間の念は、一念の違いでも雲泥の差があります。

 大法弟子と衆生は、救うと救われるという関係にあります。私たちを迫害する他の空間の邪悪な要素を、私たちはもちろん正念で根絶しなければなりませんが、操られている真相が分からない法曹部門関係者こそが、旧勢力に利用されてから、消滅される羽目になる可哀想な人たちです。師が法を正すことを手伝う大法弟子としては、慈悲の心で彼らを救わなければなりません。

 個人のわずかな悟りですので、法に則っていない所があれば慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「恐れ無し」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年カナダ法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/10/16/431315.html)
 
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