「相は心から生じる」に対する悟り
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文/青年大法弟子

 【明慧日本2024年3月26日】「相は心から生じる」と言えば、ほとんどの人は顔の相を思いつくでしょう。これは単に顔の相だけではなく、表に出ている表われや現象などの意味も含まれているのではないかと最近悟っています。我々の周りの環境や、周りにいる人物及び人々の状態や、自分に対する態度、または私たちから見えた相手の様々な現れなど、みな自身の心による様々な相につながっていると思っています。

 心の字を見ればわかるように、上に三つの筆画に「点」がありますが、この三点は、浮かんでいる埃のようで、埃は我々の持っている様々な執着のようなものです。人間は、周りの煩わしいことや、情に引っ張られて、心が動じたりしやすいのは、「ほこり」のようなものがあるからです。心を修めることは、これらの「ほこり」を取り除くことのようです。

 相は心から生じるものです。もしただ相を変えたいと思って心を修めるのであれば、心に浮かんでいる埃を抑えて隠すことと同じで、どれほど低く抑えたとしても、埃は出てきて、どれほど隠そうとしても、心から消えていないので、変えることはできません。浮かんでいる埃が存在している限り、心は文字通り「心」のままです。心を修めて埃を取り除いてはじめて、心と呼ばなくなります。(執着)心がなければ自然となり、意図的なものなどもありません。意図的なものがなければ自然に動じなくなります。心が動じなくなったら、なんでも平気になり、執着心がなくなるのです。執着がなくることは修煉者が求めている根本です。修煉者にとって、修煉は心を修めるもので、心を修めることによって、相が変わります。

 私たちが気にしているかいないか、嬉しいか悲しいか、気にいるかいないか、恨んでいるかいないか、やりたいかやりたくないか、好きか嫌いか、などはみな心の上にある埃のようなものです。心が動じたら、埃が出てくるのと同じで、環境はきれいであるはずがありません、きれいでない以上、憑き物やよくないものが寄ってくるのです。相は心により生じるし、環境は心により変わるものです。

 修煉をすると言えば、まず内に向けて探し、自分の心を修めるのです。

 次元に限りがありますので、わずかな悟りですが、法理に基づいて不適切なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いいたします

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/2/20/473378.html)
 
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