文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年11月28日】私は修煉して23年になります。この数年間の道のりで魔難を経験し、転び、迷い、苦しみ、また大法に戻り、本当に内に向けて探していくと法理に対してやっと深い理解がありました。
一、後天的な観念の障碍を取り除く
人は世間で生活していると各種の観念が生じ、科学技術の方面や、人に対してや、物事に対しての見方だったり、問題処理の方法だったり、全ては後天的に受けた異なる情報から生まれたもので、この情報はまた限定的なものなので、後天的観念は法理に対する理解を妨害しています。
私が大学を卒業したばかりのとき、父母の勧めで法輪大法の本を読み、毎日学法しましたが、人心が強く法理に対する理解は表面だけにとどまっていましたが、感性では大法が素晴らしいと分かっていました。長年、「科学」の観念を注ぎ込まれていたため、大法に対する理解の幾つかの方面ではずっと疑いがあり、実際はそれも法を信じていないことの一つでした。
短い動画の『宇宙はどれほど大きいか』を見てから、突然師父が『精進要旨』で説かれた「穹」の内包が分かり、また『轉法輪』の中で今の科学を超える方面の論述が分かりました。実際は人類が下した定義の、いわゆる科学というものは、こんなにも浅く小さいものなので、理論はとても粗末なものだと思いました。
幾つかの観念が私たちの思想の深いところに自然に形成され、自分で感じるのはとても難しいのですが、しかし師父は必ず各種の方法を通して私たちに啓示してくださいます。このときただ無条件に(物事の表面の正誤を見ずに)内に向けて探すことでやっと見つけられるのです。
二、無条件に内に向けて探す
1998年に修煉したばかりのとき、ある日多くの大法弟子と一緒に師父の『長春輔導員法会での説法』の録音を聞いて、最も深く感じた言葉があります。「どんな問題にぶつかっても、自分をみなければならないと私はいつも言っています。この問題があなたに関係なくても、あなたの目にとまったら、自分のことを省みることです。このようにすれば、前進の道のりであなたが阻まれるものはないと思います」[1]。
最初のときは理解がそんなにはっきりしませんでしたが、しかし絶えず修煉し法を実証するうちに、この話の理解がますます深まっていきました。1人の修煉者が自分の人としての物を固守すればするほど、向上するのは難しくなり、ずっと同じ境地の中で徘徊してしまうのです。
職場で新しく配属されたリーダーは、就任してからすぐに私を追い出そうとして(私は職場の生産部門の責任者で、数々のプロジェクトを担っていた)、他のリーダーが同意しなかったのでそうなりませんでしたが、それからそのリーダーは頻繫に、どんなことでも私を批判するようになりました。最初私は心の中で憤り不満で、このリーダーは故意に私に嫌がらせしていると感じ、それで私は怒りをもって反論していました。しかし冷静になってみると、すべてのことは偶然ではなく、必ず自分が修めるべきところがあるので、私はこの事の表面だけを見るべきではないと思いました。それで私は絶えず内に向けて探し、自分の「面子を重んじる心」を見つけ、特に人から悪く思われることに耐えられず、自分は仕事の中で確かに不足もあり、以前プロジェクトでは人の足を引っ張ったこともありました。それで私はその「面子」を放棄しようと思い、自分の仕事の中の問題を彼に心から謝り反省し、更に謙虚に注意深く行いました。それから、リーダーはもう嫌がらせをしてくることはなくなりました。警察が、法輪功を学んでいるとして私と家族を迫害しに来たとき、リーダーは警察を抑えて、私と家族を守ってくれました。
それ以降、修煉の道で、嫌なことがあったり、気持ちが動揺したりするとき、私はすぐに内に向けて自分の心を探し、自分のどの心が動いたのかを見ています。人心を取り除く過程はいつも胸が引き裂かれるほど辛くなりますが、取り除いた後は心が軽くなり、嬉しくなり、大法に対する理解が更に深まります。
三、圓満成就の時期に執着する心を取り除く
迫害によって、家族である同修と家を離れなければならないという経験もしました。警察があちこちの街で捜査していたため、逮捕され、酷く拷問され、殺されるかもしれない恐怖の下、労働教養の判決を受け、労働教養所で若い同修が断食をしたため苦しめられこの世を去ったのを見ると、魔難の中で人心が溢れ始め、法に対する堅い信念が揺らぎ始め、心の中では「いつになったら法が人間を正すのか。どうして大法弟子がこんな大きな魔難を受けなければならないか」と思いました。迷って転んで、心の中は苦しみさまよいました。
2004年、また大法の道に戻って来て、学法の中で絶えず自分に問いました。自分が修煉するのはなぜでしょうか? 圓満成就を求めているのですか? または師父に手伝い、更に多くの生命を目覚めさせるためですか? 自分はなぜ師父が説法の中で説かれた「法がこの世を正す時期」に執着しているのでしょうか? なぜ師父の説法を心の中で疑っているのでしょうか? 絶えず内に向けて探す中、自分の「私」が見えてきました。この「私」はつまり、自分はこの魔難と苦しみを受けたくなく、早く圓満成就したいと思い、他の生命に対して慈悲の心がなく、同時に内心の「私」が、自分の大法に対する理解の受け入れを阻害し、自分に対して有利な説法を喜び、自分が出来ないのは心の中で疑い排斥していました。
しかし、これらの事が分かってから、心の変化がはっきりして、堅くなり、自分がどのように行うべきかが分かりました。それ以降の日々は邪悪がどんなにあがいても、再度時間に対して執着することはなくなりました。師父の按排の下で私たちと縁を結んだ人は多く、大法を学び、各自で学法小グループを作り、また真相を伝え、これらの新しい学習者の影響の下で、多くの人が修煉を始め、心の中で本当に師父の慈悲に感謝しています。妻である同修と私は頻繫に互いに高め合い、ひたすら私たちが行うべきことを行えば、師父は最も良い按排をしてくださるのです。
四、財物に対する執着を取り除く
この世間において、利益は私たちが頻繫に面するもので、私たちが人の中に陥ったとき、その執着も小さくありません。小さなところでは、職場の食堂から食べ物を持ち帰ったり、ついでにペンを持って帰ったり、大きくは住宅や店舗の投資で損得をしたり、実際はやはり法理に対してはっきり分かっていないのです。
私は妻と頻繁に『轉法輪』の中の「失と得」と、『精進要旨』中の「富ありて徳もある」の悟りを交流し、修煉者としては徳を守るべきであり、なぜなら利益の心は徳を財物に交換しているので、最も馬鹿げたことです。同時に、自分が世間でどれだけのお金が全て按排されているのかを分かるべきで、人の中に陥ってはなりません。実際はあれこれ計算しても、それだけのお金しかなく、甚だしきは執着しすぎて失うかもしれません。利益に淡白になれば、行うことは順調に感じ、人との付き合いも更に気楽で自由になります。
五、法の中で自然に任せ、無理に行わない
生活の中で私たちは頻繫に幾つかの選択がおきます。仕事の変動、子供の学校の選択等等です。妻と私は法に基づいて交流しました。
師父は説かれました。「家にも学校にも、あるいは大人になれば職場にも、みな彼の存在があり、彼の働きを通じて社会各方面とのつながりが結ばれます。つまり社会全体の構成はすべてこのように配置されているのです」[2]
それらの仕事の配属や、子供の学校は全て按排されたもので、全て縁のある人が私たちと縁を結ぶのを待っているので、私たちは落ち着いて受け入れます。
しばらくして、私たちが感じたのは全て最も素晴らしい按排で、妻は仕事を移動してから更に多くの時間を使い、真相を伝えることができ、その結果さらに多くの衆生を救えました。子供も自然に私立に合格し、入学のとき最下位だったのが、1年後にはクラスのトップになり、2年目には学校の優等生クラスになり、子供の善良な品性が、校長や、クラス主任、各教科の教師たちの好評を得ました。法の中で自然に、無理にではなく、全てが最も良く按排されているのです。
六、大法弟子の間の間隔を突破してこそ、全体を形成できる
私の身辺に年寄り夫婦の同修がいて、皆はこの老年夫婦の同修の修煉がとても良くできていると感じていて、彼らは真相を伝え、資料作りを頑張っていました。しかし私が後から分かったのは、この夫婦の間は怨みがとても深く、主に女性同修は、男性同修が若い時に彼女に対して「冷淡」だったのを忘れることができず(彼らは親が決めた婚姻で、男性同修はまた口下手であった)、男性同修が病業の関を乗り越えるとき、彼らの間に効果的な交流ができませんでした。当時、私が彼らと別々に交流したとき、女性同修は絶えず怨みを話し、男性同修もどのように内に向けて探すか分からず、心の中で思っている事も言いたくないようで(面子を気にしている)、このとき私は無力さを感じました。それから病業により男性同修はこの世を去ってしまいました。
私が分かったのは、旧勢力は千万年来の大法弟子の間の業力を利用して、お互いに間隔を作っているのです。もし今生今世で人間の恩怨を解消できなければ、人間の損得を放下できなければ、どうやって修煉の中で向上できますか。大法弟子の間でどのように全体を形成するのですか。
七、情に淡白になる
私と妻は大法によって知り合いました。私たちは法の認識は基本的に同じぐらいで、多くの物事も法からの理解が近く、私たちは毎日のことを法に基づいて交流しています。外から見て笑うだけで相手の気持ちが分かり、真相を伝えるのも黙々と協力し、家の家事も時間がある方が行い、互いに補い合い、何か争いが起こってもすぐに内に向けて探し、トラブルを解消し、同修、友達や同僚も皆が私たちを羨ましがり、私たちはとても深い絆で結ばれています。先ほど話したあの老夫婦の間には怨みがありましたが、私たちに現れたのは恩愛で、どれも情に対する執着です。そのとき師父の説かれた「情は、もがけばもがくほど締まる網 名利は、人の一生を縛るもの」[3] を見て、私たちは人の間のそれらの情を淡白にしなければならず、そうでなければ必ずこの方面で互いに影響し、精進できなくなると思いました。今生では夫婦ですが、それは縁によるもので、恩や、怨みなど、全てが三界内で迷う人間の心から来ており、これらの恩怨をそんなに重く見れば、抜け出すことができず、法に対する理解も一つの次元に限られてしまいます。
この23年の修煉と法を実証する道で人心が重く、非常に良くない状態のときもありました。また精進して多くの人の前で堂々と真相を伝えたり、迫害の中で恐れ、苦痛にさまよったり、衆生の喜びに満ちた目覚めを見たりもしました。善きことです。師父の苦心の救い済度に感謝します。同修の助けに感謝します。ただ精進して修煉し、法を実証し、真相を伝えてこそ自分の誓約を守ることになり、法を正す時期の大法弟子の称号に背きません。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『長春輔導員法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の詩 :『洪吟三』「あなたの想望は何か」