文/河北省の大法弟子
【明慧日本2022年3月21日】私たちの学法チームの中に夫婦の同修AさんとBさん がいます。2021年末のある晩、チーム内でAさんとBさん間のトラブルを巡って口論になりました。翌日、内に向けて探し、Aさんと論争したときに、闘争心が生じたような気がしました。
ある日、家で『ニュージーランド法会での説法』を勉強していたら、とても役立ちそうな問答が三つあったので、夜の学法チームに持っていって、同修の向上にも繋がると思って読みました。読んでいる最中、Aさんは突然大声で叫びました。私はとても集中して読んでいたので、彼が何を叫んでいるのかわからず、彼の顔を見上げると、憎々しげな表情で叫び続けていました。まだ読み終えていなかったので無視して読み続けたところ、「この心は本当に強いな!」と彼の軽蔑するような言葉を耳にしました。その場では、心が動じなかったのですが、家に帰ってから彼の憎々しげな表情や言葉が何度も浮かんできて、心が落ち着かなくなり、「一緒に学法をする意味がない、もう二度と行かない」と思いました。
しかし、私はすぐにその考えを否定しました。集団学法は師父の要求であり、行かないわけにはいきません。「同修はみな素晴らしい同修だ、師父の良い弟子だ」と懸命に考え続けましたが、まだ心の中では納得できませんでした。納得いかないということは必ず何かの執着心があると、内に向けて探してみると、自分の潜在意識に同修を見下す心があると分かりました。
翌日、ある同修から「信仰の世界では、すべての人が感謝しなければならない存在であり、修行の世界では、すべての人があなたを成就させるために来たのだ」というメッセージが送られてきました。読んだ後、気分は大分楽になりました。その後、別の村の同修と一緒に資料の配布に出かけ、帰りにこの事について同修と交流したら、同修は「これは良い事ではありませんか」と言いました。私はすぐに師父の「一挙四得」[1]の法理を思い出し、心が豁然と開きました。その時、心の底から同修に感謝するようになり、その瞬間に自分の心性が本当に向上したと感じました。夜の学法チームで、早めに来た同修と急いでこの喜びを分かち合いました。
私は同修たちに、「Bさんが集団学法に参加することについて、どう思っているのですか?」と聞いた時、妨害だと言う同修もいれば、具体的な事の中で、誰が正しいか誰が間違っているのかと分析する同修もいました。私はそうは思わないと言い、この件を通して自分の人心、執着心を探すべきで、さらに自分が悟ったことを同修と共有しました。
数日後、Aさんが集団学法に参加した時に、Aさんは私ともう1人の同修の最も根本的な執着は、自我への執着であると厳粛に指摘しました。私は口では何も言わなかったのですが、心の中では「それがまさにあなたの執着だ!」と思い、気にしませんでした。続いて、Aさんは私たちを説得しようとし、これは私に対する迫害だと主張しました。私は冷静に、「労働教養所にいる多くの同修は、警官に迫害されながらも、無条件に内に向けて探し、最終的に警官を感動させました。それに対し、Bさんは大法を修煉しており、大法の素晴らしさを知っています。なぜ迫害と言えるのですか? 私たちは内に向けて探し、師父が欲しておられることを圓容すべきです」と言いました。Aさんは「この点で意見が合わなければ、師父が欲しておられることを圓容することができません」と言い残し、立ち上がって帰りました。その後、彼は学法チームに参加しなくなりました。
長い間、私は身体が疲れて元気がないように感じ、よく寝ます。通常5〜6時間、8〜9時間寝てしまう時もあります。何度も突破しようと試みましたが、成功しませんでした。修煉には近道がなく、着実な修煉しかないとわかっていますので、普段は自分に対して厳しく要求し、現段階の次元でできる限り行うべきことを行い、家庭の中でも勤務先でも善の心で人に接し、名利情にも淡泊で、三つのこともしっかりと行っているのに、身体の正しくない状態が長い間続いているのはなぜでしょうか? それは、きっと気づきにくい執着があるに違いありません。
このことを他県の同修と交流したところ、同修は「執着するものがないと思うことが問題です。それは自分の執着を見つけることができないという意味です。何の執着もない人はこの世にいません。病業で亡くなる前の多くの同修に聞いてみたら、みんな執着がないと答えますが、実は執着し過ぎて、本人がそれをわからないだけです」と言いました。私が「時には、傍観者はよく分かります」と言うと、彼は「確かにそうです」と言いました。私は「私のどこに問題があるのか、遠慮なく指摘してください」と言ったら、彼は「考えてから話します」と答えました。私は不思議に思って「なぜ、考えなければならないのですか?」と尋ねたところ、彼は「知恵的に、正確に言いますから、あなたに喜んでもらわなければならないので、明確に分析してから教えます」。 私は「わざわざ考えなくても、直接言ってくれればいいです。もし私が耳障りだと思えば、ちょうどそのあたりに問題があると自分は分かっています」と言うと、彼は「先に食事を済ませます」と、話はいったん終了しました。
私は同修の話を真剣に考え、彼の短い言葉に深く心を打たれました。特に、自分が相手の受け入れ能力を考えずに、気づいた問題を一気に言ってしまい、話の口調や善が足りず、小事にこだわらないなどの欠点に気づき始めました。時には相手のためですが、相手が受け入れなかったり、抵抗したりすることもありました。実際、多くの事は自分の観念や認識によってもたらしたものであり、しかし、これらの観念と認識は法に認められていないものですから、もしかしたら、これは自我に対する執着の現れではないかと思いました。
私はまた、今の学校の校長と主任のことを思い出しました。2人とも私の元同僚であり、自分よりも若いので、以前から彼らを名前で呼んでいました。2人が私の上司になっても、私は相変わらず彼らの名前を呼び、これで親しみを感じると思っていました。ある日、私は校長に印刷するためのワックス用紙を買って下さいと頼んだ時に、彼の名前を呼んだら、彼は異様な目で私を見ていました。私は呼び方を変えるべきだと分かり、それ以来、校長と呼ぶようになりました。それから、私と主任は昔から同じクラスを教えていたので、彼が主任になったのは、自分が育て上げた部分も大きいと思います。彼は人の前で話すと照れる若者から役人口調の中年男性になりましたが、数十年来、私はずっと彼の名前を呼んでいました。また、私は長年英語を教えてきましたが、欧米諸国では家族であってもよく口にする「ありがとう」に対して、ずっと反感を持っており、そうした礼儀正しさが冷淡と疎遠な関係を示していると思っていました。党文化の中で育った私は、多くの考え方が変異したにもかかわらず、自分では修煉の調子がいいと勘違いして、考えれば本当に恥ずかしいです。
私が悟ったことを同修に話したら、同修は大笑いをして「そうです、この執着ですよ。自我への執着は最大の執着であり、自分が正しいと思い込み、自分が調子良いとうぬぼれるのです。『自』と『大』に点を加えたら何でしょうか?」と、私は「臭」と答えました。同修は「怒らないで下さいね」と言い、続いて「蘇東坡と法印の物語」を話してくれました。蘇東坡は「功名利禄はすべて塵芥であり、風雨も雷電も心を動かすことができず」という詩を書きました。法印は詩をちらりと見て、「屁をひる」と言いました。蘇東坡は非常に不愉快になり、一晩かけて法印の寺院に着き、法印と議論しようと思いました。ドアが開くと、小さな童僕が一枚のメモを渡してくれました。メモには「風雨も雷電も心を動かすことができず、屁が一発で川を渡る」と書いてあります。直ちに悟った蘇東坡は恥ずかしくなり、論争せずに帰ってきた、という物語でした。同修は私の欠点を指摘する同時に、自分の心を動じさせないようにこの物語を話しました。私は同修の知恵を感じました。
私は、「自分が正しい、自分の状態は良好であると思い込むことは、謙虚さの欠如の表れでもある」と言いました。また、次のことを連想しました。十数年前、中学校で教えていた頃、学問上の観点が一致しない時、自分はいつも自信満々で、「自分が正しい」と強大な勢いで相手を圧倒し、相手がどんどん自信をなくしていきましたが、最後には自分の間違いが証明されました。修煉してから、この欠点が大分薄くなりましたが、なぜ4回しか会ったことがない県外の同修は気づいているのに、自分は意識しなかったのでしょうか。学法チームのAさんに指摘された時、全然気にしなかったと思うと、本当に汗が出るぐらい恥ずかしいです。
私はさらに深く探しました。私は何も見えない閉鎖している状態で修煉していますが、毎回心性が少し向上すると、体に強い反応があります。これは師父が精進するようにと励まされていると思います。しかし、私は必ずこの感覚を同修に話し、表面上では師と法をもっと信じてもらうためですが、それを表現するときに、思わず顕示心と歓喜心が混ざっているような気がします。少しの法理を悟るたびに自己満足に陥り、交流の中で自我に執着する要素があれば、良い効果が得られません。逆に、相手に自分の理解を押し付けられたと感じさせ、相手に反感の気持ちをもたらしても自分は感じていないのです。
同修Aさんの行動は私の鏡であり、ただ彼の方が激しく見え、私の執着は隠されていて気づきにくいだけです。長年、Aさんは執着にしっかりと包まれて、剣や槍でも破ることができない硬い殻のような存在だと感じていましたが、自分の執着心も同じではないかと悟りました。
長年来、自分は内に向けて探すことが得意で、しっかりと修煉しており、向上も早いと思っていましたが、実は、それは傲慢さと自分が良好であるという物質に惑わされていたに過ぎません。自己中心的で、無私無我に達していないのです。法を実証するときにうまくいかないのは、ほとんど自我に執着し、自我を守ることが原因です。悟らせて下さった師父に感謝し、私は必ずこの執着と向き合い取り除き、師父のご恩に背かないように精進します。
個人の悟りですが、次元の限りがあるため、不足の点があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』