文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年4月5日】法を正す進展とともに、日々学法と修煉を続ける中で、私の心性も絶えず鍛えられ、次第に昇華されてきました。真相を伝える際の方法や言葉づかい、心の持ちようにも大きな向上が見られます。真・善・忍と一体になるにつれて、真相を伝える効果も確実に高まってきました。
今では、以前と比べて自分の真相伝えが大きく変わったと感じます。以前は、まるで一つの「任務」をこなすかのようで、相手に話している言葉にもどこか実感がなく、私心や雑念が混じっているように思えました。でも、その時は自分でも何が問題なのか、はっきりと分かっていませんでした。自分の口がまるで小さなラジオのように、ただ理屈を流しているだけのようでした。相手が三退に同意しても、「相手が救われた」ということよりも、「今日は何人退かせた」と、自分の成績のように考えてしまい、まるで試験に合格したような気分で満足していました。一方で、相手が三退しない場合は、心がざわつき、不快になったり、すぐに立ち去ってしまうようなこともありました。こうした状態が長い間続いていたのです。
その後、学法を通して、かつての自分の伝え方の問題に気づくことができました。そして、その根本的な原因は、衆生に対する「本当の善意と愛」が自分の中で足りていなかったことだと分かりました。言葉に真心がこもっておらず、相手の中にある善の部分を引き出すことができていなかったのです。ただ一方的に理屈を並べるだけで、話し方にも心のあり方にも、大法が求める基準に達していませんでした。つまり、自分の言葉に「慈悲」が欠けていたのです。
私は、自分の内面を深く見つめ直し、私心が働き、恐れる気持ちが混ざっていたことに気づきました。物事の基準を「私」に置いていたため、真相を伝えても思うような成果が出なかったのです。そこで、法を繰り返し学び、暗唱し続けました。師父が私の頭の中にあった多くのよくないものを取り除いてくださり、正念が強くなっていきました。「何を修めるべきか」「どこに力を入れるべきか」もはっきりと分かってきました。真相を伝えている最中、言葉や知識が足りないと感じると、自然と師父のことを思い出します。すると師父が、途切れることなく智慧を授けてくださるのです。実際の場面では、師父の教えをしっかりと胸に刻み、「相手のために」という純粋な気持ちを持って話すようにしています。そうすると心は落ち着き、表情は穏やかになり、言葉には誠意がこもります。その結果、以前よりもずっと良い反応を得られるようになりました。
ある日、私は電動自転車で走っているときに、野菜を売っている女性の屋台を見かけました。ちょうどお客さんがいなかったので、「今だ」と思い、近づいて声をかけました。軽く挨拶をした後、本題に入りました。「ちょっとすみません。三退をすると平安を得られることを、聞いたことありますか?」彼女は冷たい口調で、「私は何にも入ったことないし、信じてないし、話を聞いてる暇もない」と言いました。でも私は、彼女の迷いの中にある態度に引きずられることなく、穏やかな心を保って話を続けました。今回は心の準備ができていたので、落ち着いて、静かな気持ちでこう伝えました。「最近、大きな災害や事故が次々に起きていますね。今日は、お金も見返りも求めず、ただ平安を得られる方法をお伝えしたくて来ました。こういう話を聞けたことは、あなたは人柄が良くて、運もいい。チャンスを逃したら、もったいないですよ。共産党が悪いと、普通の人でもよく言ってますし、役人の中にも批判する人がいます。今、天がそれを滅ぼそうとしています。もし昔、共産党やその関連団体に入っていたのなら、今ここで三退して、『法輪大法は素晴らしい』『真善忍は素晴らしい』と心に留めておけば、神様が守ってくれます。一緒に滅びることはありませんよ」
すると彼女はふと顔を上げて、「叔父さん、分かりました。私のためを思って話してくれてるんですね。昔、少先隊に入っていました。退かせてください」と言いました。私は彼女に仮名をつけて三退を手伝いました。彼女は「ありがとうございます、叔父さん」とお礼を言ってくれました。私が野菜を買ってその場を離れようとすると、彼女は嬉しそうな顔で、二度も「叔父さん、気をつけてね。気をつけてね」と声をかけてくれました。このとき、私は『轉法輪』にある「修は己にありて、功は師にあり」という言葉の深い意味を、心から実感しました。「またひとつの命が救われた」と思う一方で、その背後にある膨大な業力を、師父が代わりに背負ってくださったのだと思うと、喜びよりも深い感謝と申し訳なさがこみ上げてきました。
ある日、葡萄を売っている中年の男性に真相を伝えたときのことです。そのとき彼の店にはちょうどお客さんがいなかったので、私はすぐに話を切り出しました。「お兄さん、今日はいい知らせを持ってきましたよ。三退すると平安が得られるのですよ」と言いました。すると、彼は「その話、聞いたことあるよ。前にも誰かに言われた。でも、俺はイエスを信じてる。他のことは信じていないんだ」と言いました。そこで私はこう続けました。「まだ若いのに信仰を持っているなんて、すばらしいですね。イエスは偉大な神様です。私たちも神を信じているから、きっと話が合うと思います。だから、今日の話も少し聞いてみてくれませんか。昔、私たちが入った党や団体――あれは無神論を掲げた邪悪な組織です。しかし、私たちは神様を信じています。もし無神論の組織にまだ属していたら、自分の主に対して本当に誠実で忠実だと言えますか? そんな状態で、主があなたを守ってくれると思いますか?」
私は穏やかで誠実な気持ちで話していました。師父が常に私の正念を加持してくださっていると感じていたので、自信を持って心穏やかに話すことができました。私が話を終える前に、彼は笑顔でこう言いました。「おじさんの言う通りだ。俺、共青団と少先隊に入っていた。じゃあ、退くよ。お願いする」私は仮名をつけて三退を手伝い、「それから、『法輪大法は素晴らしい』『真、善、忍は素晴らしい』ことも覚えておいてくださいね」と伝えました。彼は「分かった!」と元気に返してくれました。こうして、また一つの尊い生命が大法に救われたのです。そのあと私は彼から葡萄を一房買いました。ちょうどその時、別のお客さんもやって来て、彼の店は賑わいはじめました。
日々の修煉を通して、正念が強く、言葉がやさしく、私心がなく、心が法の上にあるとき、相手の考えも自然とこちらの正念に引き寄せられて変化すると実感しています。
最近では、衆生に真相を伝える際、以前よりも落ち着いて話せるようになり、効果も格段に良くなりました。ただ、それによって誰かが救われたときも、以前のような高揚感や達成感は感じなくなりました。代わりに思うのは、大法弟子たちは今も国内外で日々真相を伝え、三退を勧め、多くの衆生が救われている。それは本当に喜ばしいことです。けれど、その裏には、偉大な師父が、旧勢力によって強いられた壮絶な魔難の中で、衆生のために計り知れない罪業を背負い続けておられるという現実があります。そして、私たち大法弟子がもし、しっかり修煉できず正しく歩まなければ、その分だけ師父のご負担を増やしてしまうことにもなるのです。
真相を伝える中で、師父は常に私たちを守り、智慧を与えてくださり、悪縁を断ち切り、業力を減らし、弟子としての威徳を積ませてくださっています。そうして、私たちの一歩一歩を、細やかにご按排してくださっているのです。私はただ、ほんのわずかな表面的なことをしているにすぎません。師父は、「衆生を救い済度することは皆さんの現在の生活の中の全ての出来事に含まれています」(『各地での説法四』「二〇〇三年アトランタ法会での説法」)と説かれました。私はこの言葉を、「私たちの普段の生活のすべてが、すでに衆生を伝統に回帰させる導きの役割を果たしている」と理解しています。つまり、日常の言動そのもの、態度、言葉遣い、表情、振る舞い、これらすべてに、大法弟子としての影響力が表れており、それが真相を伝えることと同じくらい、衆生の目覚めにつながる重要なことなのだと感じています。