中国法会|苦海には果てがあり、私は太陽が降り注ぐところまで歩んできた
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文/中国湖北省の大法弟子(本人が口述、同修が整理)

 【明慧日本2022年11月25日】私は1946年に生まれ、惨めな人生の中で、何度も死を求めたのですが、死んでいませんでした。1998年末、幸運にも法輪大法を修めるようになり、ようやく正しい道を見つけることができました。大法を修煉する前の私の人生は暗かったのですが、修煉後、私は太陽が降り注ぐところまで歩んできています。

 一、悲惨な人生、生きられる道はない

 1980年代には、小さな県で理容室を開き、見習いの人も入って来ました。努力と実力で、1日の売り上げが国家公務員の1カ月の給料に匹敵することもありました。私は体調が悪く、店のお金をすべて夫に渡してしまいました。 夫は安定な仕事をしていますが、ゲームやダンスをするのが好きなのです。私たちには2人の息子がいます。

 1987年6月19日、16歳の長男は、私の母の自宅近所で友人たちと冷たい川で体を洗う時、溺死しました。私は悲しくて精神面で、ぼんやりする状態になっていました。夫は私の弟を責め、凶器を作って弟を殺そうとしたのです。私は毎日恐怖に怯え、泣き暮らす日々を送り、夫は私が泣いているのを見るたびに殴っていました。翌年、夫は毎日「もう一人の子供が欲しい」と言い出しました。その時、私はすでに42歳で、2人の息子を出産した後、大量な出血による流産を4回も経験し、一人っ子政策で私は避妊の手術を受けました。当時は、子宮筋腫、胆嚢炎、リウマチ、気管支炎、肝炎、胃腸障害、腰椎ヘルニアによってシログワイのような大きな塊が出てきて、内痔核と外痔核、白血病、年中微熱で、歯茎の出血が止まらず、目の周りに黒いクマがあり、顔色は黄色で、全身病気でした。身長160センチで体重は30kgぐらいしかなかったのです。「今の体では子供を妊娠し出産することができない。もう年だし、体調も悪いし、また避妊の手術をしているので産めないよ」と、夫に言いました。すると、夫は、「離婚したい。家と次男の親権は私のものだ」。そして夫は私が長年稼いできたお金も、もう使い切り、「何も持たずに出て行ってくれ」と言って、一銭も渡してくれませんでした。

 悩んだ末に家を出て、理容室で生活するようにしました。元夫は仕事をしないでぶらぶらしており、次男の面倒も見てくれませんでした。それで、次男は理容室にきて、私と一緒に暮らすようになりました。向かいの店の女主人が、そんな私を不憫に思い、「あなたには、まだ次男がいるので、ちゃんと面倒を見てあげなさい。そうすると、まだ希望があるから」と私を励ましてくれました。私は世の中の苦しみを全て味わい、他人からのいじめもたくさん受け、散髪を口実に店に来てセクハラをする男性もいれば、お店で洗髪、カット、カラー、トリートメントをして最後は一銭も払わずに去っていったヤクザもいました。離婚したとはいえ、元夫はお金がなくなったら、店に金をせびりに来て、食べたり飲んだり、寝たりして帰らなかったのです。さらに、もうすぐ一人前になる見習いの人までもが私を騙して、店のお金を自分の財布に入れていました。

 旧暦12月のある夜、長男の元同級生が新年を迎えるため、髪を切りに来ました。その姿を見た瞬間、亡くなった長男のことを思い出して思わず涙が溢れました。泣きながら散髪を終え、代金を請求しませんでした。長男の元同級生がお店を出て、私は思わず彼の後を追って店を出ました。ダウンと綿のズボンは雨と雪にまみれ、髪も靴もびしょびしょになりながら、夜明けまで歩き続け、やっと道がわかるようになり、お店に帰ってみると、扉が開けっぱなしで、電気はつけっぱなし、次男はまだ寝ていました。

 私の精神状態は不安定で、また時には正常で、また不安定になったりしました。こんな状態で、理容室の経営ができなくなり、閉店しました。元夫の嫌がらせから逃れるため、数軒の家を建てると決心しました。その時隣人から土地を乗っ取られたり、建材を盗まれたりしていじめられたのですが、彼らと口論をしなかったのです。家の骨組みが出来るとすぐに、レンガでを窓を塞ぎ、入り口を作り、引っ越しました。内装するお金もないので、床は砂だらけで、ベッドはレンガの上に木の板を置いたもので、その上に寝ているとグラグラしていました。それでも、少なくとも一応、家ではあります。元夫が嫌がらせをしようとしても、家に入れませんでした。その後、私は竹かごに野菜を入れ行商をして、親子で寄り添いながら困難な生活を送っていました。

 1998年6月19日の午前、従順な次男は私の弟の家に魚を届けに行きました。弟の家の前に池があり、そこにどこからともなく鴨がやってきました。村では誰も鴨を飼っていなかったので、それを見た子どもたちは皆、鴨を捕まえたいと思ったそうです。次男も捕まえに行ったのですが、池に飛び込んだとたんに沈んでしまいました。それを聞いた弟や村の若者たちが池に飛び込んで次男を助け出し、保健所から医者も来ましたが、次男はもう息絶えてしまったのです。水や泥で窒息したわけでもないのに、16歳という若さで亡くなってしまったのです。11年前のこの日は長男が亡くなった日で、同じ16歳でした。

 これが私の人生なのです! 涙は乾き、目は泣き切れて見えなくなりそうになり、1メートル近くにいる人だけが見えました。もう生きられない、生きる道はない、早く死にたい、と思っていました。胆嚢炎で食事ができず、48日間、米一粒も食べずに寝込みました。それでも、まだ死んではいなかったのです。お粥に殺鼠剤を混ぜて食べたのですが、死ぬことができず、全部吐いてしまいました。野菜畑の水やりに使っていた大きな井戸で、今まで少なくとも3人が溺死したことを知っているため、私は夜の暗闇の中、溺死するよう井戸に飛び込みました。冷たい井戸水に一晩中浸かっても死ねませんでした。人に笑われるのを恐れて井戸から這い上がるしかなったのです。

 70歳の父と妊娠中の妹は、私が自殺することを恐れ、交代で私を見張っていました。私は彼らに「私を死なせたくないのなら、お寺に行かせてください」と言いました。父はそれに耐えかねて、何も言わず、家に帰って農薬を飲んで自殺しました。私は、「死ぬべき人は自分だ!」と思いました。妹は、私が自殺するのではないかと心配し、24時間私を見張っていました。私の人生はなんということでしょう! 暗い人生なのです!

 二、師父が助けてくださったため、光に向かう

 近所のおばあさんが、「私と一緒に法輪功をやりましょう。大法だけがあなたを救うことができる」と私に勧めました。妹は私を家から追い出し、近所の人たちと一緒に法輪功を学びに行かせました。

 どうすれば学べるのでしょうか? 法輪功を学んでいる人たちはとても親切で、暇さえあれば私に付き添い、励ましてくれました。何人かの人に誘われ、講堂で師父の講演会のビデオを見て、一晩中座っていましたが、耳に何も入っていませんでした。また、同修の交流の録音が流れたとき、妹に説得されて聞きに行ったのですが、また何も耳に入っていませんでした。だって、私はみじめな境遇にいたからです。

 協調人の家に連れて行かれて煉功動作を習い、1日に一式の動作を習いました。かなり早く覚えたので、家に帰って動作のやり方を書き、動作を繰り返し、5日間で五式の動作を覚えました。夜になると、同修に連れられ、学法をしました。私をお客さんのように扱ってくれました。私に座布団を譲ってくれ、同修たちは新聞紙の上に座っていました。本を読みやすいように一番明るい蛍光灯の下に私を座らせました。同修たちの善良さと優しさに、私は感動しました。「どうしてこんなにいい人たちばかりなのでしょう。今まで、ずっといじめられてきたのですが、ここだけは浄土なのです。私の人生の夜が明けました、私は修めたい、私は煉りたい」と決意しました。そして私の自宅で学法しようと思い、同修たちを誘いました。

 自宅で同修たちと一緒に学法し、1人2頁ずつ輪読していました。『轉法輪』の第六講の204頁と205頁の読み上げはその都度、私の番が回ってきました。数人または十数人の同修が円を作って座り学法しますが、時計回りでも反時計回りでも真ん中からでも、毎回、その204頁と205頁が私の番になっていました。その度に、嗚咽し目が見えず声も出せず読めないほどでした。それを見た同修たちは私をとばし、引き続き読み上げてもらったのです。9回目の『轉法輪』の輪読で、また私の番が回ってきて、次の同修が私を飛ばして読もうとした時、「私は修煉する、法を読みたい」と思い、宝の『轉法輪』を手にし、師父の説法を大声で読み上げました。

 「自分の心より魔が生じる例として、また次のような状況もあります。亡くなった肉親が現われて、あなたの心を乱す場合です。これをやってほしい、あれをやってほしいとあなたに泣きついたりして、いろんなことが出てきます。あなたは心が動じないでいられますか? それはあなたの最も可愛がっていた子、あるいは最愛の両親だったりします。亡くなった両親があれこれと頼んできて……いずれもやってはならないことばかりという時、やってしまえばあなたが駄目になります。煉功者というのはこんなにも難しいのです。佛教が乱れているとよく言われています。儒教的なものも佛教に混じり込んで、親孝行や子供への愛なども佛教に取り込まれていますが、佛教にはもともとそういう内容はありません。これはどういう意味でしょうか? すなわち、人の本当の生命は元神なので、元神を生んでくれた母親こそあなたの本当の母親です。六道の中で輪廻する間、あなたの母親は人であるのもいれば、そうでないのもおり、数え切れないほどいます。そして、生まれ変わる度ごとにあなたがどれくらい子供を持ったのかも分かりません。誰が母親で、誰が子供なのか、死んでしまえば、お互いに誰も分からなくなりますが、造った業だけは相変わらず返さなければなりません。人間は迷いの中にあって、どうしてもそういうことにしがみつきます。亡くなった子供がどれほど可愛かったかと言って、どうしても忘れることができない人がいます。あるいは亡くなった母親がどんなにやさしかったかと言って、悲しみに暮れ、残りの人生を捨てて後を追いかねない人もいます。よく考えてみてください。それはまさにあなたを苦しめるためのものではありませんか? そういう形で、あなたを楽に暮らさせないようにしているのです」[1]

 慈悲深い偉大な師父は、情魔を取り除いてくださり、心の鍵を開けてくださったのです。佛法の光は私の人生の暗い空を照らし、私はついに光を見ることができました。

 師父は、真・善・忍や人を思いやること、良いものを他人に残すことを教えてくださっており、私の心は開くようになりました。法を得てからわずか数日後、師父は私の体を浄化してくださりました。ひどく嘔吐し、手足は硬くなっていたのですが、心の中で 「師父、私は我慢できる」と言い、師父の説法の録音を聴くために、同修の家まで徒歩で往復していました、2日で元気になりました。

 三、師が法を正すことを手伝い、魔の洞窟から脱出する

 幸せな時間はいつもあっという間です。年が過ぎ、江沢民が法輪功への迫害を引き起こした1999年7月になりました。地元の多くの同修は、法を正すために北京に行きました。私も行きたくて、大事な本と着替え2着を詰め込み、同修と合流して北京に行こうとしました。その頃、私は妹の子供の面倒を見るのを手伝っていたため、その子の服もまとめて、弟に別れを告げました。弟は、邪悪な中共があらゆる悪事を働くことを知っており、恐怖を感じ、私を止めようとしたのですが、私は、「北京へ陳情に行きたい! どうしてこんなに良い大法をさせてもらえないのだろう?  私は法を得る前に16種類の病気を持っていたこと、わかるのか?  一晩中眠れず、外をさまよっていたこと、わかるのか? もう生きたくなかった、もう生きられないと思い、分かるのか? 私を救ってくださったたのは師父なのだ、私を救ってくださったのは法輪大法なのだ! 大法のために陳情しないと、師父に申し訳なくて、良心の呵責にも耐えられないのだ! 子供を連れて北京に行く」と弟に言い、弟は何も言いませんでした。その後、同修たちは次々と北京に行ったのですが、誰も私に声をかけてくれなかったし、経済的にも無理なので、私は家に残って、師が法を正すことを手伝おうと思いました。

 法を正すために北京にやってきた同修たちが次々と連行され、市や郷鎮の拘置所や刑務所で迫害された知り合いもいれば知らない同修もいました。毎月の5と10のつく日はいわゆる「接待日」で、味付けの卵や豆腐乾をたくさん作って、刑務所の入り口で同修の家族を待ちました。これで、郷や鎮の同修と全部面識がありました。不法に拘束されていた同修に師父の説法を見れるよう、肉餅スープやトイレットペーパーに経文を隠し、持ち込むための工夫をしました。こうして、郷や鎮の同修の家族は皆、私のことを知り、私の家の住所を知るようになり、市と郷鎮の同修が一体となり、ともに精進し、同修の長所を生かし、地元の衆生を救うために、さまざまな真相資料、横断幕、ステッカーなどを作っていました。

 我々はパソコンとプリンターを購入し、真相資料の提供先を設置しました。我々の作った真相資料は、いくつかの省に送りました。邪悪な妨害を受けた後、私は洗脳教室や刑務所まで拉致され、独房に監禁され順番に取り調べを受けました。誰とも話してはいけないとされました。邪悪な刑務所側は、私に9年以上の刑を科すと脅しました。私は師父の弟子なので、私を刑務所に入れようなんてありえないと思い、師父に加持して頂くよう願いました。「私はここから脱出し家に戻って、師が法を正すことを手伝いたい。邪悪にここで滅ぼされるわけにはいかない。私欲もなく、ただ学法したい、衆生を救いたい」と思っていたため、私は断食し始めました。私の心は揺るぎなく、師父に「ここは私の居場所ではない、家に帰りたい」と懇願しました。断食を始めて8日目、心臓も呼吸も止まったようになり、体も動かせなくなったのですが、頭はとても冴えていました。刑務所の所長は緊急措置を取るようにと指示しながら、公安局に報告しました。刑務所の医師、公安局、検察庁、裁判所、「610」弁公室からの人がやってきました。刑務所側は責任を取りたくなく、私がそこで死ぬことを恐れて、解放しようと思ったのですが、「610」弁公室側は私を帰らせたくなかったため、またしても膠着状態が続き、「610」弁公室の人は私の弟を呼んできて、お金を強要することになったのです。弟は、姉は今年60歳になり、結婚して何十年も経ったのに、私にお金を要求するのか? うちは農家だから、お金がない。今日、姉は生きているのであれば、何も言わない。姉に何かあったら、必ず戻ってくるから!」と言いました。「610」弁公室の人員は何も手に入らないことが分かり、私を家に帰らせたのです。こうして、死にそうになった私は、自分で歩いて家に帰りました。

 家に着いた途端、1人の同修に出会い、カップ麺を買ってきてもらい、一気に食べて完食しました。その同修がまた、一椀のうどんを作ってくれて、私はそれをも食べ、元気を取り戻しました。その晩、同修が自宅に見舞いにきました。同修は、私が断食で脱出したことを知り、邪悪な刑務所側は絶対このまま済むことにしないと言い、ここを離れるようにと勧めてくれました。それで、同修たちが夜のうちに、私を送り出そうとし、ドライバーと車を探してくれたのです。その時、妹がやってきて、もう二度と会えないと恐れ、私を抱きしめて泣いたのです。私は妹の頭を撫でて、「心配しないで、師父と大法がいるから、同修たちは兄弟姉妹のように、私の面倒をみてくれるから」と言ったのです。それ以降、私は身を落ち着ける場所がない道を歩むことになりました。

 四、師を信じ法を信じることで、奇跡が現れる

 その後、私は妹の子供の世話をするために南へ向かいました。手足がだんだん動かなくなった時期がありました。食料品を買いに行った時、街頭で無料診療をしているお医者さんに引っ張られ、血圧を測ってもらいました。測り終わった後、その場から去っていこうとした時、「脳の血管が全部詰まっている! 速く病院へ行け!」とお医者さんに言われました。私は、「お金がないから戻らなければならない」と言ったのですが、「帰ってはいけない! お金を請求しないから、一緒に病院へ行こう!」と言われました。すると、私は、「私はお手伝いですから、お客さんの家には2人の子供がいて、私が帰って料理をするのを待っています。私は何でもない、子供こそ宝物です。子供を家に残して、何かあったらどうするのですか?」と言いました。 私の言葉を聞いて、お医者さんは私の手を離し、帰らせました。

 どうやって家に帰られたのか、全く知らず、両足はもう動かなくなりました。帰宅後、目眩がひどくて吐きそうになりましたが、吐き出せなかったのです。子供に一つのりんごを渡してから、ベッドに倒れて動けなくなりました。私は法を暗誦し続け、師父に私を救ってくださるよう懇願しました。私は死んではいけません、大法を破壊することをしてはいけません。午後からその状態で、よだれが止まらず枕カバーまで流れました。仕事を終えて帰ってきた妹はその様子をみて、慌てて外で働いている義弟に電話をかけ、帰ってもらいました。私の状態を見た義弟が、「これは脳血栓だ!  早く病院に連れていこう!」と言い、私は「行かなくていいよ、師父が私を見守ってくださっているから」と言いましたが、彼らは頑として私を病院まで運びました。

 私は、「大法弟子はどこに行っても他人のことを思いやり、どこに行っても良い人にならなければならない」と思い、妹たちに、「あなたたちは手が足らないよ。家で子供の世話をしなければいけないし、仕事をしなければいけないし、病院で私の世話をしなければいけないから、少なくとも3人が必要だ。あなた達は2人しかいないから、私の面倒をみるのは無理です。私には師父がいるので、MP3に音声ファイル等を用意してくれればいい。師父の説法の録音を聞きたいだけです」と言いました。義弟は半信半疑でMP3の音声ファイルを用意し、妹は布団を敷いてくれて、ベッドに座れるようになり、薬を一錠も飲まずに4日間師父の説法を聞いたところ、元に戻りました。妹も義弟も、大法の奇跡と素晴らしさを目の当たりにしました。

 それから数年後、実家に帰りました。 2018年の冬のある朝、いつものように朝4時に起きて煉功しようとしていましたが、突然、黒い物質の塊が私を圧迫してきており、心臓以外の全身を覆われていたと感じました。「師父、助けてください!」と私は心の中で叫び、『洪吟』の「万里馳駆して 妖陣を破る 黒手を斬り尽くして 悪神を除く 大霧にせよ 狂風舞うにせよ 一路の山雨 征塵を洗う 」[2]、「正念正行 精進停まらず 法を乱す鬼を除き 衆生を善く遇す」[3]、「大覚は苦を畏れず 意志は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路 」[4]と暗誦し続けていました、だんだん意識を失っってしまいました。目が覚めたとき、私はまだベッドの上に寝ており、汗びっしょりで、右手はヘビの急所を押しているのを感じていました。「こいつはまだ動こうとしてるのか、絞めて殺してやる」と思いました。時計を見ると、すでに午後1時を過ぎており、既に12時間経ちました。

 私は午後2時からのグループ学法に参加したかったのですが、私はびしょ濡れになった服を着替える時間がなく、水を飲むことも食べることもせず、コートを羽織って、よろめきながら学法の場所に行きました。同修は私の顔色がよくないのを見て、ソファに座らせてくれました。『轉法輪』の輪読を始め、初めて自分の番になったとき、一言も声が出せなくて読み上げられなかったのです。2回目で2、3文字に声が出せるようになり、3回目で一つのフレーズに声が出るようになり、徐々に1頁を音読できるようになりました。私はグループ学法の場所で学法するのを続けていました。その時はまだ血を吐いていたので、他人の迷惑にならないように赤いビニール袋とトイレットペーパーを持ってきて、血を吐いたらトイレットペーパーで包んですぐに赤いビニール袋の中に入れたので、同修たちが気づいていなかったのです。そんな状態が半月続きましたが、私は何も無かったように、吐き出した血を見ず、怖くもなく、座禅しても痛みを感じず、正常に戻りました.

 2019年6月、胸に大きな膿疱ができ、そこから膿や黄色い水がにじみ出て、かゆくて痛く、臭いがありました。その後全身まで蔓延してしまい、全身に膿疱で膿や黄色い水がにじみ出て、正常な皮膚は一箇所もありませんでした。それでも、毎日煉功をし続け、服に膿がくっついて、着替えると皮膚が一緒に剥がれてしまいました。「伸ばす」を煉るたびに、関節の皮膚が引き裂かれました。あまりの痛みに、一晩中眠れませんでした。痛ければ痛いほど、煉功して発正念をし、1日2回以上煉功しました。最悪の時、服を着ることができず、暑い時期だったので、古いシーツをかぶっていました。私の体はひどくなったのですが、学法と煉功を続けていたので、精神状態は元気でした。そして、私は内に向けて探し続けました。

 ある日、同修の母子が私を訪ねてきて、私はすぐに自分の根本的な執着を見つけました。孤独と感じ、亡くなった息子を思う、一家団欒の楽しみを味わいたい、という執着なのです。その同修と交流し、街で歩く時、小さな犬が大きな犬に寄り添っているのを見て、すぐに2人のかわいそうな息子のことを思い出したと言いました。同修は、「あなたは孤独なんかではないよ。そんなに多くの衆生を救ったのでしょう。彼らは皆、あなたの家族でしょう!」と親切に言ってくれました。すると私の感情がすぐに消えしまい、「そうですね、私は師が法を正すことを手伝う大法弟子で、どうしてこのぐらいの執着を捨てられないのでしょう」と思いました。

 この期間中に、私が死んでいるかどうかを確認するために、町内会のスタッフは絶えず嫌がらせを続けており、また、貧しい人々を助けるという名目で写真を撮ったり署名したりすることに協力するように求めました。私は彼らに真相を伝え、「大法は私に新たな命を授けてくれましたが、あなたたちは私を洗脳班に送り、水に毒を入れて飲ませようとしました。あなたたちはこのようなことをし、いつか報いを受けなければいけないのです」と言いました。彼らは恥ずかしそうに立ち去りました。しかし、数日後、彼らは私が迷信的で、医者や薬を拒否し、法輪功を修煉したために死んだ、と言い、私が死ぬのを待っていました。すると、私は彼らに、「あなたたちが私に毒を入れ、私の師父が私のために毒を押し出してくださるので、私はよくなるのです」と言いました。

 私は師父と法を信じているため、旧正月の後、私は本当に回復し、全身の皮膚は正常で滑らかで柔らかくなりました。町内会のスタッフたちは皆、衝撃を受け、頻繁に嫌がらせをする勇気もなくなりました。

 難関を乗り越える途中で、師父と法を信じなければいけない、正念と正行をもって行動しなければならないことを深く感じました。病業でも魔難でも生死の危機であろうと、或いは、邪悪の狂う迫害であろうと、師父への正信がどんなに強いかによって、正念はどれほど強いのです。それで、難関を無事に乗り越えることができます。弟子は師父の洪大なる慈悲に深く感謝いたします。

 師父、ありがとうございます!

 同修の皆さん、ありがとうございます!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志师父の著作:『洪吟二』「征」
 [3] 李洪志师父の著作:『正神』
 [4] 李洪志师父の著作:『洪吟二』「正念正行」

 (明慧ネット第19回中国大法弟子修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/7/451380.html)
 
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